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* 阪神タイガース (2007 - 2010)
* 広島東洋カープ (2011 - 2012)
* [[三菱重工広島硬式野球部|三菱重工広島]] (2013 - )
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'''町田 公二郎'''(まちだ こうじろう、[[1969年]][[12月11日]] - )は、[[高知県]][[高知市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]]、[[内野手]])、野球指導者。{{by|2013年}}より[[三菱重工広島硬式野球部]]のヘッドコーチを務めている
 
通算20本の[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]][[代打]][[本塁打]]記録保持者(2013年現在)。{{by|1998年}}から{{by|2004年}}まで登録名を'''町田 康嗣郎'''としていた。
 
== 来歴 ==
=== アマチュア時代 ===
[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]では3年生時の[[第59回選抜高等学校野球大会|春の甲子園]]で1回戦敗退。その後、[[専修大学]]に進学。東都大学リーグ通算66試合出場、224打数65安打、打率.290、15本塁打、39打点。ベストナイン3回受賞。2年生時の春には首位打者<ref>1986年秋に、高校・大学の先輩でもある2歳上の実兄・町田隆之が首位打者を獲得しており、リーグ初の兄弟首位打者として話題に。</ref>を獲得しチーム31回目のリーグ優勝に貢献した。通算15本塁打は当時[[東都大学リーグ]]歴代2位タイの記録であった。その長打力を買われ、{{by|1991年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]1位で[[広島東洋カープ]]に入団。
2歳上の兄・隆之の影響で野球を始め、同じ[[明徳義塾中学校・高等学校|明徳義塾高校]]に進む<ref name="base_20060827_37">「ヒューマン・ドキュメント 野球浪漫2006 29回 一瞬のキラメキ 町田公二郎 『打つだけでいい、と思ったことは一度もない』」『[[週刊ベースボール]]』、2006年8月28日号、P.37</ref>。2年生の時にヒジを故障し、[[投手]]から[[野手]]に転向した<ref name="mainichi_19911120">毎日新聞、1991年11月20日付夕刊、P.2</ref>。3年春の[[第59回選抜高等学校野球大会|選抜大会]]では1回戦で[[三輪隆]]らを擁する[[関東第一高等学校|関東一高]]と対戦し、敗れている。高校卒業後は隆之のいる[[専修大学]]に進学し、2年春の[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ戦]]では[[外野手]]のレギュラーとして首位打者を獲得し、リーグ優勝に貢献して初のベストナインに選ばれた<ref name="yomirui_19890527">読売新聞、1989年5月27日付朝刊、P.18</ref>。また、隆之に続くリーグ史上初の兄弟首位打者でもあった<ref name="yomirui_19890527"/>。同年は[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球の代表]]にも選ばれている<ref>[http://www.jubf.net/us/jp_member18.html 全日本大学野球連盟 第18回日米大学野球選手権大会]</ref>。
 
3年春もリーグ戦でベストナインを受賞し<ref>読売新聞、1990年5月24日付朝刊、P.19</ref>、同年は日米大学野球<ref>[http://www.jubf.net/us/jp_member19.html 全日本大学野球連盟 第19日米大学野球選手権大会]</ref>と[[1990年アジア競技大会における野球競技|北京アジア大会]]<ref>読売新聞、1990年8月2日付朝刊、P.19</ref>の日本代表に選ばれている。4年春はリーグ戦でベストナイン<ref>読売新聞、1991年5月24日付朝刊、P.19</ref>、同年の日米大学野球では[[明治神宮野球場|神宮球場]]で行われる第1、2戦のみの代表にそれぞれ選ばれた。翌年の[[バルセロナオリンピック野球日本代表|バルセロナオリンピック代表]]の候補者としてドラフト対象外となるよう要請があったが、幼少期からの夢だったプロ野球になるべく早く行きたい、としてこれを断っている<ref name="mainichi_19911120"/>。東都大学リーグでは通算66試合出場、224[[打数]]65[[安打]]、[[打率]].290、15[[本塁打]]、39[[打点]]の成績を残した。同学年の[[桧山進次郎]]をライバルとして、当時のリーグ歴代2位タイにあたる通算15本塁打を放った長打力を評価され<ref>読売新聞、1991年11月20日付朝刊、P.19</ref>、[[1991年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1991年のドラフト会議]]で[[若田部健一]]を抽選で外した[[広島東洋カープ]]から1位指名を受けた。当時の球団史上最高額となる契約金8,000万円、年俸840万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる<ref>読売新聞、1991年12月5日付朝刊、P.19</ref>。
1年目の{{by|1992年}}から4番を任され、6本塁打を放つ活躍を見せる。大学時代の活躍に加えて、将来の[[クリーンナップ]]候補としての期待から入団時は「[[山本浩二]]2世」と呼ばれたこともあった。早い時期から右の大砲として首脳陣に期待されるが、[[前田智徳]]や[[江藤智]]、[[緒方孝市]]、[[金本知憲]]などの走、攻、守に優れた強力なライバルの台頭もあり、長打力はあったものの、守備や走塁に課題があった町田は、年々スタメンに名を連ねる試合が減少する。以降は右の代打の切り札としての地位を確立し、代打通算本塁打20本はプロ野球歴代2位タイの記録で、セ・リーグ記録でもある。{{by|1996年}}には代打で9打席連続出塁の新記録を打ち立てた。{{by|1997年}}には登録名を「公二郎」から「康嗣郎」に改めた。
 
=== プロ野球選手時代 ===
{{by|1998年}}には1試合であるが、江藤に代わり4番を任された(7月11日[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]戦)。翌{{by|1999年}}にはヤクルト戦でスタメン4番に起用され本塁打も放っている。勝負所や好機の場面に強く、ここぞという時にはよく打った。[[満塁]]の場面にも強く、代打満塁本塁打を通算4本放っている。この記録は[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]で活躍した[[藤井康雄]]と並ぶ日本タイ記録である。
プロ1年目の{{by|1992年}}は[[キャンプ_(日本プロ野球)|キャンプ]]で[[アキレス腱]]を痛めて出遅れ、5月には一軍に昇格したが、6月13日の対[[阪神タイガース|阪神]]戦で三本間に挟まれた際に[[捕手]]に右腕をスパイクされて10針を縫い、再び二軍へ戻った<ref name="base_20060827_37"/><ref>読売新聞、1992年7月27日付朝刊、P.19</ref>。7月17日には[[フレッシュオールスターゲーム|ジュニアオールスターゲーム]]に出場し、3安打の活躍で優秀選手賞を受賞している<ref name="base_20060827_37"/>。後半戦は7月26日の対[[横浜ベイスターズ|大洋]]戦でプロ初本塁打を放つと、翌日は2本塁打5打点を記録する<ref>毎日新聞、1992年7月27日付朝刊、P.17</ref>などの活躍を見せ、7月28日の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦では初めて4番打者として起用された<ref>読売新聞、1992年7月29日付朝刊、P.20</ref>。その後はマークも厳しくなり8試合で3打点と伸び悩み<ref>毎日新聞、1992年8月12日付朝刊、P.14</ref>、8月21日の対ヤクルト戦からは再び[[西田真二]]が4番になっている。同年は6本塁打を放ち、オフの契約更改では160万円増の年俸1,000万円(推定)となっている<ref>毎日新聞、1992年11月13日付朝刊、P15</ref>。
 
{{by|1992年}}は体の開きが早くなるクセのため4、5月は不調だったが、フォームの修正に取り組んで6月17日の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦では5打点を記録している<ref>毎日新聞、1993年6月18日付朝刊、P.23</ref>。同年は主に[[左翼手]]として77試合に先発出場している。{{by|1995年}}は同年代の[[緒方孝市]]や[[浅井樹]]とレギュラーの座を争い<ref>読売新聞、1995年7月22日付朝刊、P.23</ref>、9月10日の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦では初の代打満塁本塁打を放っている<ref>毎日新聞、1995年9月11日付朝刊、P.17</ref>。同年は8本塁打、22打点の成績で800万円増の年俸2,300万円(推定)で契約を更改した<ref>朝日新聞、1995年12月2日付朝刊、P.26</ref>。
{{by|2000年}}シーズンは規定打席不足ながら、右の絶対的な代打として存在感を大いに発揮し、[[打率]].281、ともに自己最高となる13本塁打、34[[打点]]をマークした。なお、このシーズン前半戦までは規定打席に到達していて3割3分台の高打率を残していた。
 
{{by|1996年}}は右ひじ痛で二軍スタートとなったが、一軍に復帰すると4月21日の対ヤクルト戦で満塁本塁打を放っている<ref>朝日新聞、1996年4月22日付朝刊、P.23</ref>。[[江藤智]]が負傷した9月にはプロ初の[[三塁手]]の守備にもついた<ref>毎日新聞、1996年9月2日付朝刊、P.17</ref>。また同年は代打成績が飛躍的に向上し<ref name="yomiuri_19961108">読売新聞、1996年11月8日付夕刊、P.3</ref>、8月23日から9月11日にかけては当時のリーグ新記録となる代打9打席連続[[出塁]]<ref name="npb_daida">[http://www.npb.or.jp/cl//entertaiment/record/pdf/2012/15.pdf 日本野球機構 セ・リーグ 年度別代打成績(pdf)]</ref>を達成し、リーグ歴代2位のシーズン代打打率.455の成績を残した<ref name="npb_daida"/>。また、左投手に対して打率.347、9本塁打の成績を残し、左腕キラーと呼ばれた<ref name="yomiuri_19961108"/>。
{{by|2002年}}には、6月7日の対[[阪神タイガース]]戦の1回表で、[[偵察オーダー|偵察メンバー]]として先頭打者に起用されていた[[鶴田泰]]の代打として登場し、[[トレイ・ムーア]]から本塁打を放った。これはセ・リーグでは通算3人目の「'''初回先頭打者代打HR'''」である。同時にこの本塁打で代打本塁打数をセ・リーグ新記録となる通算17本とし、[[川又米利]]が持つセ・リーグ通算代打本塁打記録(16本)を塗り替えた({{by|2006年}}に阪神移籍後初の代打本塁打を放ち、更に記録を更新した)。
 
{{by|1997年}}は登録名を「公二郎」から「康嗣郎」に改め、レギュラー定着を目指してキャンプから内野守備に取り組み<ref>読売新聞、1997年2月26日付朝刊、P.21</ref>、[[二塁手]]や三塁手としても39試合に先発出場した。同年は初の二桁本塁打を記録し、700万円増の年俸4,000万円(推定)で契約を更改した<ref>読売新聞、1997年11月30日付朝刊、P.20</ref>。[[ルイス・ロペス (1964年生の内野手)|ルイス・ロペス]]の退団した{{by|1998年}}は浅井や[[ティモニエル・ペレス]]と一塁手のレギュラーの座を争っている<ref>朝日新聞、1998年3月17日付朝刊、P.17</ref>。同年は代打としてチーム最多の10打点を記録している<ref>朝日新聞、1999年5月31日付朝刊、P.28</ref>。{{by|1999年}}は6月に江藤が負傷すると、[[金本知憲]]とともに代わりの4番を任されて活躍した<ref>読売新聞、1999年6月22日付朝刊、広島地方面</ref>。
{{by|2003年}}までは日本記録となる9年連続代打本塁打を放つなど、一時は日本記録及び世界記録でもある[[高井保弘]]の27本に迫る勢いを見せたが、{{by|2004年}}以降は故障や若手の台頭などもあり、出場機会は大幅に減少した。それでも、生涯の通算代打本塁打数は20本となり、[[大島康徳]]と並ぶ歴代2位に名を連ねた。セ・リーグで通算20本台に到達したのは史上初のことで、両リーグでも史上3人目となる快挙であった。
 
{{by|2000年}}は緒方の負傷もあって[[右翼手]]として57試合に先発出場するなど、スタメンとしての起用が増えた。8月24日の対巨人戦で走塁の際に右足首を故障した<ref>毎日新聞、2000年</ref>こともあって規定打席には達しなかったものの、打率.281、ともに自己最高となる13本塁打、34打点をマークした。{{by|2001年}}は、5月10日の対巨人戦で打球を追ってフェンスに上がった際に落下し、[[SLAP損傷|右肩関節唇損傷]]を負った<ref>読売新聞、2001年5月12日付朝刊、P.21</ref>。10月11日の対ヤクルト戦で、[[藤井康雄]]と並ぶ日本タイ記録となる、通算4本目の代打満塁本塁打を[[前田浩継]]から放っている<ref>朝日新聞、2001年10月12日付朝刊、P.18</ref>。
{{by|2004年}}シーズン終了後に、[[八木裕]]の引退により右の代打が手薄となった阪神タイガースへ金銭トレードで移籍した。移籍に伴い登録名を再び「公二郎」に戻す。
 
{{by|2002年}}は開幕から23打席無安打、うち[[三振]]が11とシーズン序盤は不調に苦しんだ<ref name="yomiuri_20020611">読売新聞、2002年6月8日付朝刊、広島地方面</ref>。特打などの練習を行ない、打撃のタイミングを修正したことで復調し<ref name="yomiuri_20020611"/>、6月7日の対阪神戦では[[偵察オーダー|偵察メンバー]]として起用されていた[[鶴田泰]]の代打として登場し、[[トレイ・ムーア]]からリーグ通算3人目の初回先頭打者代打本塁打を放った<ref name="yomiuri_20020608">読売新聞、2002年6月8日付朝刊、P.17</ref>。また、この本塁打が[[川又米利]]が持つセ・リーグ記録を更新する通算17本目の代打本塁打となっている<ref name="yomiuri_20020608"/>。同年に[[フリーエージェント_(日本プロ野球)|フリーエージェント]]の権利を獲得したが、行使せずに残留して現状維持の年俸4,500万円(推定)で契約を更改した<ref>毎日新聞、2002年12月3日付朝刊、P.19</ref>。{{by|2003年}}は8月22日の対中日戦で[[ファウルボール]]を打った際に右[[外腹斜筋]]に挫傷を負い、全治2週間となっている<ref>読売新聞、2003年8月23日付朝刊、P.23</ref>。{{by|2004年}}シーズン終了後にトレード要員となり、[[八木裕]]の引退により右の代打が手薄となった阪神タイガースへ金銭トレードで移籍した<ref>読売新聞、2005年3月7日付夕刊、P.2</ref>。移籍に伴い登録名を再び「公二郎」に戻している<ref>読売新聞、2005年1月19日付朝刊、P16</ref>。
{{by|2005年}}は故障の影響で出場機会は限られたものの、代打で同点タイムリーを放つなど好機では持ち前の勝負強さを発揮し、球団の2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。{{by|2006年}}は天王山の対[[中日ドラゴンズ]]戦で[[小笠原孝]]から阪神移籍後第1号本塁打を放ち、その後の対中日戦でも[[山本昌]]から均衡を破るセンター前ヒットを放つなど首位争いを繰り広げるチームの中で活躍を見せた。しかしスタメンを固定するチームの事情のため、代打としての出場機会は減少し、シーズン終盤に[[片岡篤史]]とともに[[戦力外通告]]を受けた。一時は現役続行も検討したものの、持病の首痛が悪化していたこともあり引退を表明。{{by|2007年}}より阪神の二軍打撃コーチに就任することが発表された。引退会見の際、打撃コーチの就任について、「好かれるコーチはいらないはず。ましてファームでは。一軍に行くための大事な時期ですから、厳しさのあるコーチの方がいい。好かれないコーチ、将来一緒にいて良かったと思えるようなコーチをめざします」と語った。
 
{{by|2005年}}は故障の影響で出場機会は限られたものの、球団は2年ぶりにリーグ優勝している。{{by|2006年}}は開幕を一軍で迎えたが出番のないまま登録を抹消され<ref name="base_20060827_34">『週刊ベースボール』、2006年8月28日号、P.34</ref>、腰痛のため二軍での調整が続いた。しかし7月2日の[[オリックス・バファローズ (ファーム)|サーパス]]との試合で代打サヨナラ本塁打を放って一軍に復帰すると、7月4日の対中日戦で[[小笠原孝]]から阪神移籍後第1号となる本塁打を放ち、これがNPB歴代2位タイの通算20本目の代打本塁打となっている<ref name="sponichi_himekuri">[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09july/KFullNormal20090701160.html スポニチ 日めくりプロ野球 【7月14日】2006年同期生金本が絶叫!町田公二郎、最後の本塁打で届いた]</ref>。シーズン終盤に[[片岡篤史]]とともに[[戦力外通告]]を受けた。一時は現役続行も検討したものの、持病の首痛が悪化していたこともあり引退を表明した。
{{by|2010年}}10月に阪神のコーチを辞任し、{{by|2011年}}から広島東洋カープの一軍打撃コーチを務めることが発表された。{{by|2012年}}は、チーム打率がリーグ5位に終わったこともあり、10月16日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された<ref>{{cite news|date=2012-10-16|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/16/kiji/K20121016004343870.html |title=広島 町田打撃コーチが退団 後任は引退の石井か|newspaper=スポーツニッポン|accessdate=2012-10-19}}</ref>。2012年12月19日に、社会人野球[[三菱重工広島硬式野球部]]のヘッドコーチに2013年1月から就任することが発表された<ref>{{cite news|date=2012-12-19|url= http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/19/kiji/K20121219004809110.html|title=元広島 町田氏 三菱重工広島ヘッドコーチに|newspaper=スポーツニッポン|accessdate=2012-12-20}}</ref>。
 
=== 現役引退後 ===
通算代打成績は397打数、90安打、20本塁打、71打点、打率.227。
{{by|2007年}}より阪神の二軍打撃コーチに就任した。引退会見の際に、好かれるコーチではなく将来一緒にいて良かったと思えるようなコーチを目指す、と語っている<ref>朝日新聞、2006年10月14日付朝刊、P.20</ref>。
 
{{by|2010年}}10月に阪神のコーチを辞任し、{{by|2011年}}から広島東洋カープの一軍打撃コーチを務めることが発表されに就任して同月の秋季キャンプからチームに合流し<ref>読売新聞、2010年10月27日付朝刊、広島地方面</ref>。{{by|2012年}}は、チーム打率がリーグ5位に終わったこともあり、10月16日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された<ref>{{cite news|date=2012-10-16|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/16/kiji/K20121016004343870.html |title=広島 町田打撃コーチが退団 後任は引退の石井か|newspaper=スポーツニッポン|accessdate=2012-10-19}}</ref>。2012年12月19日に、[[社会人野球]]の[[三菱重工広島硬式野球部]]のヘッドコーチに{{by|2013年}}1月から就任していことが発表された<ref>{{cite news|date=2012-12-19|url= http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/19/kiji/K20121219004809110.html|title=元広島 町田氏 三菱重工広島ヘッドコーチに|newspaper=スポーツニッポン|accessdate=2012-12-20}}</ref><ref>毎日新聞、2013年12月20日付朝刊、P.21</ref>。
 
== 人物・プレースタイル ==
広島時代は左打者の[[浅井樹]]とともに[[代打]]の切り札として活躍した。特に{{by|1996年}}には2人とも代打での打率が4割を超えている<ref name="npb_daida"/>。通算代打成績は397打数、90安打、20本塁打(2012年現在、プロ野球史上2位)<ref name="npb_homerun">[http://www.npb.or.jp/cl/entertaiment/record/pdf/2011/06.pdf 日本野球機構 セ・リーグ 年度別各種本塁打記録]</ref>、71打点(2012年現在、セ・リーグ史上12位)<ref name="npb_daida"/>、打率.227。{{by|1995年}}までの4年間は代打成績が打率.167、1本塁打、9打点とむしろ代打を苦手にしていたが、試合開始からスタメンのつもりで相手投手を分析して配球を読むようになり、さらに右打ちの練習を重ねたことで苦手の[[球種_(野球)|変化球]]を克服したという<ref name="yomiuri_19961108"/>。
広島時代は左右の投手によって左打者の[[浅井樹]]との併用が多かった。かつてはドラフト会議で外野手ナンバー1候補と呼ばれたがプロ生涯で一度も[[規定打席]]に到達した事はなく、先発のレギュラーというポジションではなかったものの、ファンの人気は高く、応援時(特に好機での代打起用)ではゲーム1・2を争う盛り上がりを見せた。その際には「'''未来へ輝け 町田公二郎'''」と書かれた横断幕も必ず用いられていた。守備では現役時代、一貫して[[外野手]]登録ではあったが、当時の外野陣には前田、緒方、金本といった主力選手でほぼ固定されていた事情もあり、内野を守る機会も多かった。内野手として[[一塁手|一塁]]、[[二塁手|二塁]]、[[三塁手|三塁]]を守った事がある。ただ守備は上手いとは言い難く、外野手としても肩の弱さを問題視された事もある。守備面に関しては浅井の方が評価は高かった。
 
「バットを振らなければ何も起こらない」という信条から代打では特に見逃しを極端に嫌い、積極的に打つ姿勢を見せた<ref name="base_20060827_38>『週刊ベースボール』、2006年8月28日号、P.38</ref>。試合前の練習から相手チームの投手の球筋をイメージしてスイングするなど、代打の1打席で結果を出すために入念な準備を怠らなかった<ref name="base_20060827_36"/>。一方で、現役生活の最後まで代打ではなくレギュラーを目指しており、得意ではない走塁や守備にも課題を持って練習に取り組んでいた<ref name="base_20060827_36">『週刊ベースボール』、2006年8月28日号、P.36</ref>。現役時代は一貫して[[外野手]]登録ではあったが、同時期の広島の外野陣は[[前田智徳]]、[[緒方孝市]]、[[金本知憲]]らが定着していった事もあり、バッテリーと[[遊撃手]]を除く全ポジションで先発出場した事がある<ref name="base_20060827_37"/>。
常に笑顔を絶やさない明るい性格の持ち主で、サインや写真撮影にも気軽に応じ、女性ファンの人気も高かった。その一方で、勝負所で本塁打を打った際や[[ヒーローインタビュー]]などではあまり表情を変えないクールなコメントが多かった。ただ、そんな町田が感情を表に出したときがある。{{by|1999年}}の[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]でライト前に代打サヨナラタイムリーを放った際に両手をあげガッツポーズ。ヒーローインタビューで涙を浮かべ「また明日から頑張ります」と語った(このシーズンは開幕当初から20打席以上の無安打が続くなど極度の不振に苦しみ、打席数を増やして調子を上げようと1番スタメンも経験するなど試行錯誤を繰り返していた)。1打席しか許されない代打というポジションから、責任感も人一倍強かった。打撃と比較して、守備と走塁には課題があったが、全力プレーは健在で、内野守備ではしばしばダイビングキャッチによる好守も見せた。
 
[[金本知憲]]とは広島の同期で、入団当時から仲が良かった<ref name="sponichi_himekuri"/>。町田が阪神移籍後第1号本塁打を放った際には、金本がベンチの誰よりも喜びをあらわにした<ref name="sponichi_himekuri"/>。
12球団屈指のハードな練習と言われる広島にいながら、チーム1・2を争う練習量を誇る事でも有名で、合同練習の3時間前に球場入りし、特製の錘付バットをひたすらスイングするのが彼のトレーニングスタイルであった。その成果により筋骨隆々とした体をつくりあげた。とあるプロ野球中継で「和製[[アーノルド・シュワルツェネッガー|シュワルツェネッガー]]」と称された事がある。[[山本浩二]]監督には「そんな練習したら、体を壊してしまうぞ」と驚かれた。
 
{{要出典範囲|ファンの応援では、'''未来へ輝け 町田公二郎'''という横断幕が用いられていた。常に笑顔を絶やさない明るい性格の持ち主で、サインや写真撮影にも気軽に応じ、女性ファンの人気も高かった。その一方で、勝負所で本塁打を打った際や[[ヒーローインタビュー]]などではあまり表情を変えないクールなコメントが多かった。12球団屈指のハードな練習と言われる広島にいながら、チーム1・2を争う練習量を誇る事でも有名で、合同練習の3時間前に球場入りし、特製の錘付バットをひたすらスイングするのが彼のトレーニングスタイルであった。その成果により筋骨隆々とした体をつくりあげた。|date=2013年4月}}
阪神タイガースの[[金本知憲]]とは広島時代の同期にあたり、仲が良かった。阪神移籍後も、ともに若手選手への兄貴的存在として慕われた。若き日の金本も、町田の人並外れた[[ウエイトトレーニング]]を参考にしたという。町田が対中日戦で阪神移籍後第1号本塁打を放った際には、ベンチの誰よりも喜びをあらわにし、ヒーローインタビュー(この試合で金本も本塁打を打っている)では、「町田は広島時代からの同期で、阪神に来てからなかなか1本が出なくて心配していたが、(今日本塁打を打てて)自分の事のように嬉しい」とのコメントを残している。町田が戦力外通告を受けた際、現役引退の意向を最初に伝えたのも金本であった。
 
== 「幻の本塁打」 ==
広島時代の{{by|1999年}}6月30日の対[[横浜ベイスターズ]]戦([[富山市民球場アルペンスタジアム]])の5回に[[東出輝裕]]の代打として出場し、[[川村丈夫]]の初球を左翼ポール際へ本塁打性の打球を放つ。ボールは明らかにポールを巻いていたように見えたが、三塁塁審の[[真鍋勝己]]はファウルという判定。広島首脳陣は約10分間猛抗議したが認められなかった(球審は[[渡真利克則]])。町田は結局空振り三振し、バットを叩き付けて悔しがった。
 
また、阪神移籍後の{{by|2005年}}5月3日の対広島戦([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])では1点ビハインドの9回に走者一塁の場面で代打出場。[[ジョン・ベイル]]から左翼ポール際への逆転サヨナラ本塁打かという大飛球を放つも、塁審の[[上本孝一]]の判定はファウル。この時も結果は三振だった。
 
== 脚注 ==
{{Reflist|3}}
 
== 関連項目 ==
[[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]]
[[Category:阪神タイガース及びその前身球団の選手]]
[[Category:三菱重工業の人物]]
[[Category:野球指導者]]
[[Category:高知県出身の人物]]
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