「細川清氏」の版間の差分

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== 伝記 ==
[[三河国]]細川郷(現在の[[愛知県]][[岡崎市]])に生まれる。[[足利氏]]の一門である[[細川氏]]は、[[吉野 (日本)|南朝]]との戦いでは北朝を擁する足利幕府に従い、足利家の内紛である[[観応の擾乱]]では[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]に属する。父の和氏は1342年に死去し、清氏は叔父の[[細川頼春]]に従い、南朝や[[足利直義]]派と戦う。
 
52年に[[伊賀国]]の守護となり、翌53年6月に[[足利直冬]]が[[京都]]へ侵攻した際には殿を務め、近江の塩津において[[後光厳天皇]]を背負って山越えをしたと言われる。54年9月には[[若狭国]]守護、[[評定衆]]、引付頭人に加わり、相模守となる。翌55年の直冬勢の京都侵攻においは本拠の[[東寺]]を破り、58年には、2代将軍[[足利義詮]]から執事(後の[[管領]]の初見)に任命され、幕政の中枢へ進出する。59年12月には河内の南朝勢掃討を立案し、[[鎌倉]]から上洛した[[関東管領]]の[[畠山国清]]とともに出陣する。