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前線の将軍達の間で[[呉 (三国)|呉]]征伐の機運が持ち上がると、傅嘏は意見を求められたが、呉征伐に消極的な意見を述べた。果たして、[[胡遵]]・[[諸葛誕]]が東興で呉の[[諸葛恪]]に敗れ、遠征は失敗に終わった(東関の役)。この勝利に奢り、今度は諸葛恪が北伐の軍を起こし、[[青州]]・[[徐州]]に攻め寄せる気配を見せたとき、傅嘏はその動きは陽動であり、結局、諸葛恪は[[合肥]]に攻め寄せるであろうと予想し、的中させている。
 
[[嘉平 (魏)|嘉平]]年間に[[関内侯]]の爵位を得た。[[曹髦|高貴郷公]]が即位すると、武郷亭侯に爵位を進めた。[[255年]]、[[カン丘倹|毌丘倹]]・[[文欽]]が[[揚州]]で反乱を起こしたときは、[[司馬師]]が自ら討伐に出向くことを[[王粛]]と共に主張した。傅嘏は尚書僕射として司馬師の遠征に同行、反乱の鎮圧には傅嘏の策謀によるところが大きかった。司馬師が逝去すると、高貴郷公は傅嘏のみに軍を率いさせて、[[司馬昭]]の権力を削ごうとしたが、傅嘏は直ちに司馬昭を伴い[[洛陽]]に帰還した。陽郷侯に封じられ、600戸の加増を受け、1200戸を領した。その年の内に46歳で亡くなった。[[太常]]を追贈され、元侯と諡された。子の傅祗が爵位を継いだ。
 
[[鍾会]]と親しく付き合ったが、鍾会の野心の高さを見抜き、行く末を心配していたという。