「岩本義行」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
KLBot2 (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 1 件をウィキデータ上の d:Q8056332 に転記
51行目:
 
=== 戦前プロ時代 ===
初代主将でもあったが、初戦のオープン戦途中に[[召集令状|赤紙]]の令状を受け、それをポケットに押し込むと 「打て!、打て!」とナインを叱咤し、2年間兵役に服し[[青島市|青島]]にいた<ref>関三穂『プロ野球史再発掘(5)』ベースボール・マガジン社、1987年、P120。</ref>。そのため試合出場はなく、復員した[[1940年]]から戦時下の[[1942年]]まで南海でプレー。[[1941年]]、[[太平洋戦争]]開戦直前に行われた[[職業野球東西対抗戦]](現在の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター戦]])でも西軍の四番を打った。この試合に出場した選手の大半はこの後戦地に送られ、[[吉原正喜]]、[[鬼頭数雄]]、[[村松幸雄]]らは帰って来ることはなかった。
 
1942年には打撃三部門([[打率]]・[[本塁打]]・[[打点]])で全て2位。同年[[7月11日]]、[[後楽園球場]]での対[[名古屋軍]]戦で、'''1試合3本塁打のプロ野球新記録'''を達成。戦前に記録した唯一人の選手である。1938年の綿製品禁止令以降、粗悪となった用具が更に進んだ年の記録で、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]・[[古川清蔵]]が105試合で8本という年の1試合3本塁打であった。[[バット (野球)|バット]]を体の正面でゆったりと構える独特の打法は'''[[神主打法]]'''と呼ばれた。明治在学中に自ら考案して身に付けたといわれ、この打法はバックスイングをほとんど取らず、腕力だけで叩く打法であった。同年限りで退団。