「1701年王位継承法」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Addbot (会話 | 投稿記録)
m ボット: 言語間リンク 18 件をウィキデータ上の d:q316537 に転記
16行目:
 
== 成立の背景 ==
これは[[ジャコバイト]]の脅威が背景にあり、この王位継承法なくしてはアン女王の死後、[[名誉革命]]によって玉座を逐われた[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]の長男(アンの異母弟)ジェームズ老僣王に王位が移る可能性が強まったためである。この法によってカトリックを王位から締め出すと、カトリックが比較的多くステュアート家の発祥地であるスコットランドでは反発が起こり、スコットランド議会で[[1703年]]、スコットランドの王を自らで決するという安全保障法(the Act of Security)が成立した。これに対してイングランド側は交易の制限などの圧力をかけたため、スコットランドは経済的に追いつめられた。その結果、[[1707年]]に[[合同法 (1707年)|合同法]]が成立して、スコットランド議会は自らの解散を宣言、イングランドとスコットランドの合同により[[グレートブリテン王国]]が成立した。[[1714年]]にアン女王が死去すると、王位継承法によってゾフィーの長男、ハノーファー選帝侯ゲオルクがグレートブリテン王に迎えられ、[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]として即位した。
 
== 2011年の部分改正 ==