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{{Infobox Airliner incident
|name = 日本航空123便墜落事故
|画像 = JA8119 at itami airport 1982.jpg
|Image caption = 事故機の JA8119<br/>[[1984年]]春 [[大阪国際空港]]
|Date = 1985年(昭和60年)[[8月12日]]
|Type = 後部[[圧力隔壁]]の損壊と、それに続く尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊により操縦機能の喪失をきたしたため。隔壁の損壊は、[[1978年]]に行われた隔壁の不適切な修理に起因したもの([[運輸安全委員会|航空事故調査委員会]]による推定原因)。
|Site = {{JPN}}・[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]][[高天原山]]中
|Fatalities = 520
|Injuries = 4
|Aircraft Type = [[ボーイング]][[ボーイング747|747SR-46]]
|Operator = [[ファイル:Flag of Japan.svg|20px]][[日本航空インターナショナル|日本航空]](JAL) (JAL)
|Tail Number = JA8119
|Passengers = 509
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|Survivors = 4
}}
'''日本航空123便墜落事故'''(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)[[8月12日]]18時56分に、[[日本航空 (曖昧さ回避)|日本航空]](JAL、正式名はJAPAN AIRLINES)123便、[[東京国際空港|東京(羽田)]]発[[大阪国際空港|大阪(伊丹)]]行、[[ボーイング747]]SR-46(ジャンボジェット、[[機体記号]]JA8119)が、[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]]の[[高天原山|高天原山の尾根]]([[御巣鷹の尾根]])<ref group="※">事故当時、墜落地点は[[御巣鷹山]]と報道されたが、正確には[[高天原山|高天原山系]](たかまがはらさんけい)に属する無名の[[尾根]]であり、御巣鷹山の南隣に位置する。この尾根は後に、上野村村長であった[[黒沢丈夫]]によって事故現場に最も近い御巣鷹山から「御巣鷹の尾根」と命名された。</ref>に墜落した[[航空事故|事故]]である。
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=== 事故当日のJAL123便 ===
*当日のJAL123便の[[飛行計画|フライトプラン]]:羽田空港18時00分発、離陸後は南西に進んだ後、[[伊豆大島]]から西に巡航、[[和歌山県]][[串本町]]上空で北西に旋回、伊丹空港18時56分着予定
*使用された JA8119(就航以来の飛行回数:約18,800回)の当日の運航予定
**503・504便で羽田〜千歳線1往復
**363・366便で羽田〜[[福岡空港|福岡]]線1往復
**123・130便で羽田〜伊丹線1往復
***123便で5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
*乗務員:以下の通り計15人。年齢・総飛行時間はともに事故当時。
**コックピット・クルー
***[[機長]]:高濱 雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官 総飛行時間12,423時間41分)<ref group="※">高濱機長は[[海上自衛隊]]から[[東亜国内航空]]を経て昭和41年12月に日本航空に入社。</ref>
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***[[航空機関士]]:福田 博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官 総飛行時間9,831時間03分)
****[[旅客機のコックピット|コックピット]]では[[機長昇格訓練]]の為、佐々木副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。高濱機長は副操縦士席で佐々木副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当。
****当日、福田機関士は羽田〜福岡線363・366便で JA8119に、佐々木副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、高濱機長は当日最初のフライトであった。
**[[客室乗務員]]
***チーフパーサー:波多野 純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)
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機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に[[酸素マスク]]が落下し、プリレコーデッド・アナウンス<ref group="※">Pre-Recorded announce。予め録音してあって緊急時に自動的に流れる、男性の声で乗客に[[シートベルト]]の着用やマスクの装着を指示した音声。</ref>が流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。一部座席では着水に備え、[[救命胴衣]]の着用なども行われた。波多野チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間があったまれなケースである。
 
[[デッドヘッド]]乗務の生存者によれば「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と語っており、機体後部に取り付けられていた[[ボイスレコーダー|コックピットボイスレコーダー(CVR) (CVR)]]には幼児連れの親に子供の抱き方を指示する放送、身の回りを確認するよう求める放送、不時着を予想してか「予告無しで着陸する場合もある」との放送、「地上と交信できている」との放送が墜落直前まで記録されている。その他、一人の客室乗務員による不時着後に備えて乗客に出す指示を列挙したメモや、異常発生後の客室内を撮影したカメラが墜落現場から見つかり、マスコミによって公開されている。
 
=== 地上との交信 ===
* JAL123便は18時24分47秒に[[遭難信号|緊急救難信号]]「[[トランスポンダ|スコーク77]](7700) (7700)」の無線信号を発信、信号は[[所沢市|所沢]]の[[東京航空交通管制部]] に受信された。直後に高濱機長が無線で管制部に対して緊急事態発生のため羽田へ戻りたいと告げ、管制部はそれを了承した。JAL123便は[[伊豆大島]]へのレーダー誘導を要求した。管制部は右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は遠回りとなる右旋回を希望した。羽田は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
* 27分 東京航空交通管制部が123便に[[緊急事態]]を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、管制部はJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
* 28分 東京航空交通管制部は123便に真東に向かうよう指示するが123便は操縦不能と返答。管制部はこの時初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。
* 31分 東京航空交通管制部は羽田より近い[[名古屋飛行場|名古屋空港]]に緊急着陸を提案するが、123便は羽田行きを希望する。通常は航空機と地上との無線の交信は[[英語]]で行われているが、管制部は123便のパイロットの負担を考え、[[日本語]]の使用を許可し、以後の交信では123便は一部日本語が用いられている。
* 33分頃 JAL はカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求め、35分、123便から R-5 のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので後ほど呼び出すまで無線をモニターするよう求められ、日航は了承した。
* 40分 東京航空交通管制部は、123便と他機との交信を分けるため、123便専用の無線周波数を準備し、123便にその周波数に変えるよう求めたが、応答はなかった。
* 42分 逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めたが、一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。
* 45分 無線のやり取りを傍受していた[[在日米軍]]の[[横田基地]] (RAPCON) が123便の支援に乗り出し、123便に[[アメリカ軍]]が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「操縦不能」との声が返ってきた。管制部が「東京アプローチ(羽田空港の入域管制無線)と交信するか」と123便に提案するが、123便は拒んだ。
* 47分 123便は[[千葉県|千葉]]の[[木更津市|木更津]]へレーダー誘導するよう求め、東京航空交通管制部は真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と質問すると、123便から「[[アンコントローラブル]](操縦不能)」と返答がきた。その後、管制部は東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
* 48分 無言で123便から機長の荒い呼吸音が記録されている。
* 49分 日航がカンパニーラジオ(社内専用無線)で3分間呼び出しを行ったが応答はなかった。
* 53分 東京航空交通管制部が123便を呼び出した。123便から「アンコントロール」と無線が入ってくる。管制部と横田の RAPCON が返答、RAPCON は、横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っていると返答。東京航空交通管制部も東京アプローチの無線周波数へ変更するよう求め、123便が了承する。
* 54分 日航も呼び出しを行ったが応答はなかった。123便から現在地を尋ねられ、東京航空交通管制部が羽田から55マイル(100km) (100km) 北西で、熊谷から25マイル(45km) (45km) 西と告げる。
* 55分 (この時だけ「日本語にて申し上げます」と前置きして)東京アプローチから羽田と横田が緊急着陸準備を行っておりいつでも最優先で着陸できると知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と返答する。この言葉が123便からの最後の交信となった。その直後に東京アプローチが123便に対し、今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も56分前まで東京アプローチと横田の RAPCON が123便に対して呼び出しを行ったが応答はないままだった。
* 57分 横田の RAPCON が123便に対し、「貴機は横田の北西35マイル(65km) (65km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸できる」と呼びかけ、東京アプローチも123便に対して横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時、すでに123便は墜落していた。
 
=== コックピットと機体の状況 ===
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同じ頃、[[与圧|客室の気圧]]が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体には[[フゴイド運動]]や[[ダッチロール]]が生じ、[[ピッチング]]と[[ヨーイング]]、[[ローリング]]を繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」という言葉が記録されている。
 
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が[[緊急降下]](エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案<ref group="※">酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はない。その理由については不明である。</ref>、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している<ref group="※">R5 のドアは墜落現場で破損していない状態で発見されている。航空機関士は機長に対して「'''R5付近の酸素がっこちてます、ディセンド(降下)したほうが良いと思います'''」と報告した後に「'''荷物の収納スペースのところが落っこちてる'''」と報告している。なぜ「R5 のドアがブロークン」と羽田の日航オペレーションセンターへ連絡したのか、そもそも連絡がどのような内容であったかは不明である。</ref>。
 
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。これを回避するために、38分頃ランディング・ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
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クルーの努力も空しくJAL123便は降下し続け、18時56分14秒に[[対地接近警報装置]]が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右[[主翼]]が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。接触後、[[水切り]]のように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の破壊が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「あーダメだ!」もしくは「もうダメだ!」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字の形で公表されたが、この叫び声は判読不能とされている。
 
衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した。後の調査によれば、機体の大部分に数百[[重力加速度|G]]の衝撃が加わったとされ、両主翼も離断し炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇的に生還できた。だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった<ref>運輸省航空事故調査委員会(当時)による認定[http://araic.assistmicro.co.jp/aircraft/download/pdf/62-2-JA8119-01.pdf]</ref>。
 
即死したものも多かったものの、客室後部付近を中心に墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある<ref>『墜落の夏―日航123便事故全記録―』(吉岡忍・著、1986年8月、新潮社、ISBN 4-10-363001-9) </ref>。なお、墜落直後に現場上空を飛んだ米軍ヘリから「人命救助をする旨」の要請をするが、日本政府側がこれを断った。もし、この要請を受け入れていたら、先述の通り生存者がもう少し多かった可能性があった。
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また、当時の[[東京消防庁航空隊]]には[[サーチライト]]を搭載した[[アエロスパシアル]]製救助ヘリコプターが2機配備されていた。事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁への出動要請はなかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、このヘリの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の姿勢だったこともあり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった<ref>昭和60年8月28日「第102回国会 交通安全対策特別委員会」議事録中ほどにある、当時の衆議院議員・[[坂井弘一]]委員と運輸省航空局管制保安部長・中村資朗の質疑応答[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/102/0680/10208280680009a.html]</ref>。この消防ヘリについては事実の誤認が有り、[[前照灯|着陸灯]]を探照灯(サーチライト)と間違った可能性がある<ref name="gunmakenkei">元警察本部長・事故対策本部長著『日航機墜落―123便、捜査の真相』</ref>。なお、東京消防庁航空隊は13日に、陸上自衛隊が事故現場よりヘリで搬送した生存者4名のうち2名を上野村臨時ヘリポートで降ろした際に、同乗した前橋赤十字病院医師の判断で、救急車から消防庁の幹部移送のために駐機の消防ヘリに載せ替えて搬送している<ref name="gunmakenkei"/>。
 
民間機遭難を想定した当時の「航空機の捜索救難に関する協定」では、主に[[警察庁]]と[[運輸省]]([[航空局]])などが中心になっており、[[捜索救難]]の主体は警察が担うことになっていた。また、警察と各自衛隊との協力は防衛庁を通しての間接的な連携であり、航空自衛隊救難隊との直接の無線連絡はもちろんのこと、航空自衛隊中央救難調整所(RCC) (RCC) との連携なども不明確な状態に置かれていた。また、航空自衛隊のKV-107救難ヘリは夜間救難用のサーチライトを装備して、当時でも夜間救難作業に従事するなど、サーチライトの有無が事故機救難の阻害要因とは考えられない。なお、航空自衛隊の救難ヘリは警察の捜索隊との無線連絡の出来できない中で、搭載の着陸灯、サーチライトなどを用いて上野村に派遣された群馬県警捜索隊への必死の誘導を試みている。
 
=== アメリカ軍による救難活動の情報 ===
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=== 著名人やその関係者 ===
* [[坂本九]](歌手)
* [[北原遥子]](女優・元[[宝塚歌劇団]]娘役)
* [[中埜肇]]([[阪神電気鉄道]]専務取締役鉄道事業本部長・[[阪神タイガース]]球団社長)
* [[浦上郁夫]]([[ハウス食品]]代表取締役社長)
* [[塚原仲晃]](医学博士・[[大阪大学]]基礎工学部教授)
* [[辻昌憲]](元自転車競技選手・[[シマノレーシング]]監督)
* [[竹下元章]](元[[広島東洋カープ|広島カープ]]捕手)
* [[藤島克彦]]([[コピーライター]])
* [[緋本こりん]]([[同人]][[漫画家]])
; 関係者
 
* [[伊勢ヶ濱]]親方([[大相撲]]・元[[大関]]・[[清國勝雄]])の妻子
; 関係者
* [[吹田明日香]](タレント)の母
* [[伊勢ヶ濱]]親方([[大相撲]]・元[[大関]]・[[清國勝雄]])の妻子
* [[ダイアナ湯川]](バイオリニスト)の父(銀行家)※ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後。
* [[吹田明日香]](タレント)の母
* [[ダイアナ湯川]](バイオリニスト)の父(銀行家)※ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後。
など。
 
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== 事故調査 ==
運輸省航空事故調査委員会は、事故発生後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカから、[[国家運輸安全委員会]](NTSB) (NTSB) の事故調査官らが顧問として加わった<ref group="b" name="p3">事故調報告書p.3 航空事故調査の概要</ref>。事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、しりもち事故の際に自らが行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めた<ref>朝日新聞、毎日新聞、読売新聞 他各紙 1985年9月8日</ref>。
事故から約1ヵ月後の9月6日、事故機の製造者であるボーイング社が声明を発表し、しりもち事故の際に自らが行った圧力隔壁の修理にミスがあったことを認めた<ref>朝日新聞、毎日新聞、読売新聞 他各紙 1985年9月8日</ref>。
 
=== 事故の原因 ===
[[画像:Boeing B747 Aft Airlock.jpg|thumb|right|250px|ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)]]
[[1987年]][[6月19日]]、事故調査委員会(委員長:武田 峻)は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表した。その要旨は以下のとおりである<ref group="i" name="p128">事故調p.128 原因</ref>。
# 事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
 
# 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の[[金属疲労]]によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の[[与圧]]に耐えられなくなったために生じたと推定される。
# 事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
# この亀裂の発生は、1978年に起きた同機の「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態)であったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。
# 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の[[金属疲労]]によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の[[与圧]]に耐えられなくなったために生じたと推定される。
# この亀裂の発生は、1978年に起きた同機の「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態)であったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。
 
また、報告書では調査結果に基づき、大規模な機体の修理を行う場合は、その修理部分を特別に点検項目に加えて継続監視することや、与圧構造が損壊した場合の[[フェールセーフ]]性を耐空基準に追加することなどを勧告した<ref group="k" name="p129">事故調p.129 事故後に講じられた措置</ref>。
 
=== 報告書をめぐる議論 ===
[[File:Rear pressure bulkhead B747 ja.svg|thumb|left|ボーイング747型機の後部圧力隔壁]]
 
==== 垂直尾翼の破壊 ====
事故調査報告書では、事故機の垂直尾翼の破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしている<ref group="h" name="69p">事故調p.69 破壊順序の推定</ref>。損壊した垂直尾翼については、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されなかった。[[1986年]][[4月25日]]に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないという意見が出た。また、尾翼の捜索も不十分であるという指摘もあった<ref name="shincho"/><ref name="fujita2003"/>。
損壊した垂直尾翼については、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されなかった。[[1986年]][[4月25日]]に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないという意見が出た。また、尾翼の捜索も不十分であるという指摘もあった<ref name="shincho"/><ref name="fujita2003"/>。
 
==== 「急減圧」の存在 ====
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事故が起きた昭和60年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した<ref>[http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa61/ind000301/frame.html 昭和61年度 運輸白書 - 増大する航空輸送]</ref>。これに対し新幹線旅客は輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し同9.8%増となった<ref>[http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa61/ind000901/frame.html 昭和61年度 運輸白書 - 輸送動向]</ref>。
 
JA8119 の遭難直前のフライトである福岡発羽田行366便には、前日の11日に[[平和台球場]]で行われた[[中日ドラゴンズ|中日]]戦を終えた[[阪神タイガース]]のナインが、13日からの[[後楽園球場]]での試合に備え搭乗していたほか、日本航空の監督官庁でもある運輸省トップだった運輸大臣の[[山下徳夫]]も、[[三光汽船]]の会社更生法適用決定を受けて急遽佐賀県から帰京するために搭乗していた。
 
「日本航空123便」という便名は、1985年9月1日のダイヤ改正以降、[[欠番]]とされた。後に現在はこの便名と対となる「日本航空122便」も欠番扱いになった。
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事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の[[特殊会社]]体制から完全[[民営化]]へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する社会からの批判の受けて、政府主導により抜本的な体制の刷新が行われた<ref>毎日新聞「人事大幅刷新は首相の強い意向 自身が認める」1985年10月29日</ref>。1985年12月、当時の[[クラシエホールディングス|カネボウ]]会長・[[伊藤淳二]]が日航副会長に就任(のち[[会長]]昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題の解決に取り組むとともに「絶対安全の確立」を新たな経営方針の一つとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた<ref>[http://www.jalcrew.jp/jfu/52sokuhou/no52222.pdf 日本航空乗員組合ニュース]</ref>。
 
[[2006年]][[4月24日]]、羽田空港整備地区に[[日本航空安全啓発センター]]が開設された<ref>[http://www.jal.com/ja/press/0000535/535.html JAL、安全啓発センターを開設](プレスリリース)</ref>。JA8119 残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。社内向けの施設であるが一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。センター内は特別の場合を除き撮影禁止となっている。
 
=== 調査資料の廃棄とCVR音声の流出 ===
283 ⟶ 278行目:
 
=== 装備の更新 ===
当時の陸上自衛隊は夜間装備が十分ではなく、山間部での救難活動は行っておらず、救難作業が出来できるヘリコプターなども無かった。また、事故発生直後、事故現場上空で捜索救難活動を行った航空自衛隊・[[救難隊|百里救難隊]]所属の救難ヘリコプターKV-107「バートル」には現場周辺を明るく照らす[[照明弾]]が装備されていたものの「照明弾が地上に落下した後、燃焼熱で山火事を誘発する危険性がある」として、山火事の少ない夏山にもかかわらず使用ができなかった。
 
これを教訓として、航空自衛隊[[航空救難団]]救難隊に、本格的な夜間の捜索救難が可能な[[赤外線暗視装置]]を装備した[[UH-60 ブラックホーク]]救難・救助ヘリコプターが[[1990年]]より順次調達・配備されている。なお、当時のKV-107救難ヘリでも山間部や洋上での夜間救難活動を行っており、機体側面の観測窓横には強力な救難用ライト4灯を装備していた。
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== 事故を題材にした出版物など ==
=== テレビ番組 ===
;『[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]] 第3シーズン第3話・御巣鷹の尾根(英語タイトル「OUT OF CONTROL」)』([[ナショナルジオグラフィックチャンネル]]<ref>なお、この前に放送された第3シーズン第2話「バクダッド上空」では油圧喪失の内容を含んだため、当便の交信記録の一部が放送された。</ref>)
:急減圧のために操縦士らに低酸素による意識障害が起こったという視点で製作されているため、ボイスレコーダーの音声等から考えられている実際の事故の状況とはやや矛盾した再現映像となっている。
;『[[衝撃の瞬間]]6 第5話 日本航空123便墜落事故(英語タイトル「TERRIFIED OVER TOKYO」)』(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
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=== 小説 ===
; 『[[沈まぬ太陽]]』
: [[山崎豊子]]原作。当時の日本航空をモデルとして、社内からの視点で描いたフィクションの作品。2009年に映画化。
; 『[[クライマーズ・ハイ]]』
: [[横山秀夫]]原作。当事故の報道における地元新聞社の苦悩を描いた作品。2005年にテレビドラマ化、2008年に映画化。
 
=== 漫画 ===
; 『御巣鷹山の暑い夏』
: [[小林源文]]作。自衛隊による事故現場処理の様子を描いたドキュメンタリー形式の劇画で雑誌『PX MAGAZINE』に掲載<ref>『ストライク アンド タクティカル マガジン』2007年11月号にp. 36のセルフリメイクで再掲載。</ref>。2010年4月「GENBUN MAGAZINE」別冊Vol.1として単行本化。(ISBN 4560331630131)。
 
=== 演劇 ===
; 『赤い鳥逃げた…』
: [[劇団離風霊船]]が[[1986年]]に初演。1988年、1989年、1995年、[[2005年]]に再演。物語は、事故の生存者と同じ事故に遭ったが自らの死を受け入れられない生存者の家族を軸にしており、役名も実際の生存者の名前を使っている。またラストでは生存者の1人が語ったとされ、メディアでも取り上げられた証言が一言も変えずに使われている。タイトルは、本事故とほぼ同時期にヒットしていた[[中森明菜]]の楽曲である「[[ミ・アモーレ]]」の異名同曲異歌詞である「[[赤い鳥逃げた]]」と当時日本航空の旅客機に描かれていた「[[日本航空インターナショナル#鶴丸|鶴丸]]」に掛けている。
; 『8・12(はってんいちに)』
: 「[[劇団裏長屋マンションズ]]」の座長である[[赤塚真人]]が、同事故で親友を失った事実をもとに書き下ろした作品。[[2004年]]に初演、事故後20年の節目となった翌年には続編(第二章)が上演され、[[2008年]]「8・12 ~絆~」として再演される。物語は、父親との確執を抱えたまま事故機に搭乗した青年の思いを軸に、実在したクラブハウスを舞台に描かれる。同劇団では、作品の上演にあたり毎年[[御巣鷹山]]への慰霊登山を実施しているという。
; 『[[CVR チャーリー・ビクター・ロミオ]]』
: 実際に発生した航空事故のCVRを再現した舞台演劇作品。そのうちのひとつが本事故。[[1999年]][[アメリカ合衆国]]で初演。日本では燐光群によって[[2002年]]に初演。
; 『操縦不能 UNCONTROLLABLE』
: 2010年初演。由木事務所。
 
=== 映画 ===
; 『御巣鷹山』
: [[渡辺文樹]]監督作品。自主制作のフィクション。上野村をはじめ全国で上映会を開いており、上映前会場周辺に「ファイヤービー」などの文字の入った[[捨て看板]]が設置される。[[2006年]]公開。
; 『[[クライマーズ・ハイ]]』 - 同名小説の映画化。
: [[2008年]][[7月]]公開。[[2012年]][[8月]]には[[衛星劇場]]でも放送された。
; 『[[沈まぬ太陽]]』 - 同名小説の映画化。
: [[2009年]][[10月]]公開。
 
=== 音楽 ===
; RAMP IN
; SONG FOR YOU
: 1985年11月発売のアルバム『[[T's BALLAD]]』に収録された[[角松敏生]]の楽曲。歌詞カードには「RAMP IN」で“Dedicated to the stewardesses of JAL 123”、「SONG FOR YOU」では“Dedicated to the souls of the passsengers of JAL 123”とそれぞれ記載。「RAMP IN」は、1993年発売のベスト・アルバム『[[1981-1987]]』に完全リテイクで再収録。ライナーノーツには改めて“'85年に起きた航空機事故の乗員乗客に捧げた”と記載。
; Last Flight
: 上記同様、角松敏生の楽曲。2003年発売のシングル「君のためにできること」のカップリング曲として発表、その後アルバム『[[Summer 4 Rhythm]]』に収録。
 
== 参考文献 ==
=== 運輸省 ===
* 運輸省航空事故調査委員会 『航空事故調査報告書』(計2冊、別冊あり)、1987年、ISBN 4-10-363001-9、{{全国書誌番号|87051796}}
 
=== 航空事故研究 ===
* [[加藤寛一郎]]
** 『壊れた尾翼-日航ジャンボ機墜落の真実』 技報堂出版、1987年、ISBN 4-7655-4337-4(文庫版 [[講談社]]、2004年、ISBN 4-06-256854-3)
** 『爆発JAL123便 航空機事故、複雑怪奇なり』大和書房、2006年、ISBN 4479300333
* 杉江弘 『機長の『失敗学』』 講談社、2003年、ISBN 978-4062118002
* 山本善明
** 『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか〈上〉』講談社、1999年、ISBN-10: 4062098849
** 『墜落の背景―日航機はなぜ落ちたか〈下〉』講談社、1999年、ISBN-10: 4062099195
** 『日本航空事故処理担当(講談社プラスアルファ新書)』講談社、2001年、ISBN-10: 4062720647
* [[藤田日出男]]
** 『あの航空機事故はこうして起きた』新潮社、2005年、ISBN 4-10-603556-1
** 『隠された証言―JAL123便墜落事故』 [[新潮社]]、2003年、ISBN 4-10-462001-7(文庫版 2006年、ISBN 4-10-129351-1)
 
=== 関係者および報道による記録 ===
* 朝日新聞社会部 『日航ジャンボ機墜落事故』 朝日新聞社、1985年、ISBN 4-02-255441-X(文庫版 1990年、ISBN 4-02-260606-1)
* 飯塚訓
*: [[群馬県警察]]高崎警察署身元確認班長
** 『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』 [[講談社]]、1998年、ISBN 4-06-209259-X(文庫版 2001年、ISBN 4-06-256515-3)
** 『墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実』 [[講談社]]、2001年、ISBN 4-06-210746-5
* 新藤健一『映像のトリック』[[講談社現代新書]] 1986年 ISBN 4-06-148804-X
*: [[共同通信]]写真記者
* 角田四郎『疑惑―JAL123便墜落事故』 早稲田出版、1993年、ISBN 4-89827-152-9
* 鶴岡憲一・北村行孝『悲劇の真相:日航ジャンボ機事故調査の677日』 [[読売新聞社]]、1991年、ISBN 4-643-91059-3
* [[日本赤十字社]]『救護体験記 : 85・8・12日航機墜落事故現場から』 日本赤十字社、1986年、全国書誌番号:99015336
* [[吉岡忍 (作家)|吉岡忍]]『墜落の夏―日航123便事故全記録』 [[新潮社]]、1986年、ISBN 4-10-363001-9(文庫版 1989年、ISBN 978-4-10-116311-6):生存者の7時間のインタビュー
*: ノンフィクション作家
* 米田憲司 『御巣鷹の謎を追う-日航123便事故20年』 [[宝島社]]、2005年、ISBN 4-7966-4667-1
* 河村一男 『日航機墜落―123便、捜査の真相』 [[イーストプレス]]、2004年、ISBN 4-87257-448-6
*: 事故対策本部長として事故対処に当たった当時の群馬県警[[警察本部長]]
* 青山透子『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ 』[[マガジンランド]]、2010年、ISBN 4-94410-190-2
*: 元日本航空スチュワーデスによるノンフィクション
* Hood, Christopher P., ''Dealing with Disaster in Japan: Responses to the Flight JL123 Crash'', (2011), Routledge, ISBN 978-0415456623 (hard back), ISBN 978-0415705998 (paper back). eBook also available.
 
=== 遺族による記録 ===
* [[門田隆将]] 『風にそよぐ墓標-父と息子の日航機墜落事故』 [[集英社]]、2010年、ISBN 408780576X
* 川北宇夫 『墜落事故のあと』 [[文藝春秋]]、1992年、ISBN 4163462104
* 美谷島邦子『御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年』 [[新潮社]]、2010年、ISBN 4103254211<!--
<!-- 要チェック。本文中に参照されていないなら不要
* 井上赳夫 『航空大事故の予測 日航ジャンボ機墜落の謎』 [[大陸書房]]、1985年1、ISBN 4-8033-0942-6
* 河村一男
** 『日航機遺体収容 123便、事故処理の真相』 イースト・プレス、2005年、ISBN 4-87257-574-1
* 内藤一郎『真説日本航空機事故簿』 亜紀書房、1994年、ISBN 4-7505-9412-1
-->
 
== 類似事故・事件 ==
* [[パンアメリカン航空845便離陸衝突事故]] - [[ボーイング747]]、1971年。進入灯に接触し、4本の油圧配管のうち床下を走る3本を破断。ボーイング747初めての人身事故。[[内田幹樹]]は著書の中で、この事故後に適切な設計変更がされていれば123便の油圧喪失は防げたのではと語っている。
* [[英国欧州航空706便墜落事故|BEA706便墜落事故]] - ビッカース ヴァンガード、1971年。圧力隔壁の設計ミス。
* [[アメリカン航空96便貨物ドア破損事故]] - [[DC-10]]、1972年。飛行中貨物扉が与圧に耐えられず脱落。急減圧により床下の操縦索を損傷。このときの機長は油圧のみで操縦する第3世代の機種に不安を抱いており、油圧喪失時の操縦を研究していた。
* [[トルコ航空DC-10パリ墜落事故]] - [[DC-10]]、1974年。貨物室ドアが外れたため操縦系統に損傷を受け、操縦不能に陥った。アメリカン航空96便の経験は活かされなかった。123便の事故が発生するまで、単独機航空事故として世界最大の死亡事故だった。事故発生当初、「ドアが破損した」という交信があったことから、123便も同様と疑われていた。
* [[オペーレーション・ベイビー・リフト]] - [[C-5 (航空機)|C-5]]、1975年。整備不良のため与圧で扉が外れ操縦系統を損傷し墜落。
* [[大韓航空機撃墜事件]]([[大韓航空]]007便) - [[ボーイング747]]、1983年。INS の故障でソ連を[[領空侵犯]]しミサイルを発射される。ミサイルは尾翼に命中し操縦索や油圧系統を損傷したとみられ、また急減圧が発生して緊急降下を試みたが墜落した。
* [[タイ航空機爆発事件]]([[タイ国際航空]]620便) - [[エアバスA300]]、1986年。乗客の持ち込んだ爆発物により圧力隔壁を損傷。急減圧が発生し油圧喪失。
* [[アロハ航空243便事故]] - 1988年。金属疲労によって機体外壁が損壊し大きな穴が空いた。
* [[ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故]] - 1989年。飛行中に貨物ドアが脱落し急減圧が発生。破片や吸い出された物で機体を損傷。当初はドアロックの金属疲労が原因と思われたが、犠牲者の家族により電気システムの不具合であったことが判明。
* [[ユナイテッド航空232便不時着事故#運航乗員の対応|ユナイテッド航空232便不時着事故]] - [[ダグラスDC-10]]、[[1989年]]。本事故の教訓から油圧系統が全滅した場合の操縦方法を研究していたパイロットが搭乗していたため、着地は不完全であったものの空港への帰還に成功した。
* [[フィリピン航空434便爆破事件]] - [[ボーイング747]]、1994年。テロリストの持ち込んだ爆発物が座席下で爆発、床に穴を開け操縦系統を損傷。方向舵の操作が困難になったためエンジン出力のコントロールで帰還したものの多数の乗客が負傷した。
* [[チャイナエアライン611便空中分解事故]] - [[ボーイング747]]、2002年。1980年に起こしたしりもち事故で修理した圧力隔壁が、金属疲労で壊れて墜落した。
* [[DHL貨物便撃墜事件]] - [[エアバスA300]]、2003年。テロリストの発射した地対空ミサイルが命中し全油圧を喪失したが、[[バグダード国際空港]]への着陸に成功。
 
== 出典 ==
{{Reflist}}<!--
<!-- どこの記述に対する出典かはっきりしない。refで書き直すか、参考文献の項と整理統合の必要あり
* 運輸省航空事故調査委員会 『航空事故調査報告書』(計2冊、別冊あり)、1987年、ISBN 4-10-363001-9、{{全国書誌番号|87051796}}
* 朝日新聞社会部 『日航ジャンボ機墜落事故』 朝日新聞社、1985年、ISBN 4-02-255441-X(文庫版 1990年、ISBN 4-02-260606-1)
* 飯塚訓
** 『墜落遺体 御巣鷹山の日航機123便』 [[講談社]]、1998年、ISBN 4-06-209259-X(文庫版 2001年、ISBN 4-06-256515-3)
** 『墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実』 [[講談社]]、2001年、ISBN 4-06-210746-5
* 杉江弘「機長の告白 生還へのマニュアル」講談社、2000年、ISBN 406210329X
* 角田四郎『疑惑―JAL123便墜落事故』 早稲田出版、1993年、ISBN 4-89827-152-9
* 日本赤十字社『救護体験記 : 85・8・12日航機墜落事故現場から』 日本赤十字社、1986年、全国書誌番号:99015336
* [[藤田日出男]] 『隠された証言―JAL123便墜落事故』 [[新潮社]]、2003年、ISBN 4-10-462001-7(文庫版 2006年、ISBN 4-10-129351-1)
* 美谷島 邦子『御巣鷹山と生きる―日航機墜落事故遺族の25年』 [[新潮社]]、2010年、ISBN 4103254211
* 吉岡忍『墜落の夏―日航123便事故全記録』 [[新潮社]]、1986年、ISBN 4-10-363001-9(文庫版 1989年、ISBN 978-4-10-116311-6):生存者の7時間のインタビュー
* スタンリー・スチュワート『墜落か生還か』 [[講談社]]、2000年、ISBN 4062103230
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=== 事故調査報告書 出典 ===
; 事故調査報告書 交信記録・CVR・DFDR記録
<references group="a"/>
; 事故調査報告書 事故調査の経過
<references group="b"/>
; 事故調査報告書 修理
<references group="c"/>
; 事故調査報告書 気象
<references group="d"/>
; 事故調査報告書 飛行経路
<references group="e"/>
; 事故調査報告書 事故の概要
<references group="f"/>
; 事故調査報告書 異常事態の発生
<references group="g"/>
; 事故調査報告書 機体後部の破壊
<references group="h"/>
; 事故調査報告書 事故原因
<references group="i"/>
; 事故調査報告書 救助
<references group="j"/>
; 事故調査報告書 措置
<references group="k"/>
 
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== 外部リンク ==
* 公式サイト
** [http://www.mlit.go.jp/jtsb/index.html 運輸安全委員会]
** {{PDFlink|[http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/bunkatsu.html#5 航空事故調査報告]}}([http://www.mlit.go.jp/jtsb/ 国土交通省 運輸安全委員会]より)
** {{失敗知識データベース|CB0071008|御巣鷹山の日航ジャンボ機の墜落}}
** [http://www.neverland.co.jp/8_12/ 8・12連絡会]日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故 遺族の会ホームページ
* 当時の記録
** [http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm 日航機墜落事故 東京-大阪123便 新聞見出しに見る25年間の記録](1985年から現在までの記事を蓄積)
* 墜落現場
** [http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=360003&l=1384140 国土地理院・地図閲覧サービス(墜落現場周辺)]<!---「昇魂の碑」を表す記号あり--->
** [http://maps.google.com/?ll=35.998424,138.700848&spn=0.036873,0.065317&t=k Google Map] 現在の墜落現場。中央に見えるV字型に色の薄くなっている部分
** [http://www.uenomura.ne.jp/ 群馬県上野村]アクセス・宿泊情報など
* その他
** [http://www.eonet.ne.jp/~accident/850812.html 航空事故調査報告書概要]([http://www.eonet.ne.jp/~accident/ Aircraft Accident in Japan]より)
** [http://www.hood-online.co.uk/JL123/Book1/contents.php 「Dealing with Disaster in Japan: Responses to the Flight JL123 Crash」というの英文の本について]
{{CommonscatN|Japan Airlines Flight 123}}