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{{ウィキ座標2段度分秒|36|00|05|N|138|41|38|E|display=title}}
{{Infobox Airliner incident
|name = 日本航空123便墜落事故
|画像 = JA8119 at itami airport 1982.jpg
|Image caption = 事故機の JA8119<br
|Date = 1985年(昭和60年)[[8月12日]]
|Type = 後部[[圧力隔壁]]の損壊と、それに続く尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊により操縦機能の喪失をきたしたため。隔壁の損壊は、[[1978年]]に行われた隔壁の不適切な修理に起因したもの([[運輸安全委員会|航空事故調査委員会]]による推定原因)。
|Site = {{JPN}}・[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]][[高天原山]]中
|Fatalities = 520
|Injuries = 4
|Aircraft Type = [[ボーイング]][[ボーイング747|747SR-46]]
|Operator = [[ファイル:Flag of Japan.svg|20px]][[日本航空インターナショナル|日本航空]]
|Tail Number = JA8119
|Passengers = 509
|Crew = 15
|Survivors = 4
}}
'''日本航空123便墜落事故'''(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)[[8月12日]]18時56分に、[[日本航空 (曖昧さ回避)|日本航空]](JAL、正式名はJAPAN AIRLINES)123便、[[東京国際空港|東京(羽田)]]発[[大阪国際空港|大阪(伊丹)]]行、[[ボーイング747]]SR-46(ジャンボジェット、[[機体記号]]JA8119)が、[[群馬県]][[多野郡]][[上野村]]の[[高天原山|高天原山の尾根]]([[御巣鷹の尾根]])<ref group="※">事故当時、墜落地点は[[御巣鷹山]]と報道されたが、正確には[[高天原山|高天原山系]](たかまがはらさんけい)に属する無名の[[尾根]]であり、御巣鷹山の南隣に位置する。この尾根は後に、上野村村長であった[[黒沢丈夫]]によって事故現場に最も近い御巣鷹山から「御巣鷹の尾根」と命名された。</ref>に墜落した[[航空事故|事故]]である。
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=== 事故当日のJAL123便 ===
*当日のJAL123便の[[飛行計画|フライトプラン]]:羽田空港18時00分発、離陸後は南西に進んだ後、[[伊豆大島]]から西に巡航、[[和歌山県]][[串本町]]上空で北西に旋回、伊丹空港18時56分着予定
*使用された JA8119(就航以来の飛行回数:約18,800回)の当日の運航予定
**503・504便で羽田〜千歳線1往復
**363・366便で羽田〜[[福岡空港|福岡]]線1往復
**123・130便で羽田〜伊丹線1往復
***123便で5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
*乗務員:以下の通り計15人。年齢・総飛行時間は
**コックピット・クルー
***[[機長]]:高濱 雅己(たかはま まさみ、49歳・運航部門指導教官 総飛行時間12,423時間41分)<ref group="※">高濱機長は[[海上自衛隊]]から[[東亜国内航空]]を経て昭和41年12月に日本航空に入社。</ref>
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***[[航空機関士]]:福田 博(ふくだ ひろし、46歳・エンジニア部門教官 総飛行時間9,831時間03分)
****[[旅客機のコックピット|コックピット]]では[[機長昇格訓練]]の為、佐々木副操縦士が機長席に座り操縦、クルーへの指示を担当。高濱機長は副操縦士席で佐々木副操縦士の指導、無線交信などの副操縦士の業務を担当。
****当日、福田機関士は羽田〜福岡線363・366便で JA8119に、佐々木副操縦士は別の機にそれぞれ乗務し、高濱機長は当日最初のフライトであった。
**[[客室乗務員]]
***チーフパーサー:波多野 純(はたの じゅん、39歳 総飛行時間10,225時間)
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機内では衝撃音が響いた直後に、各座席に[[酸素マスク]]が落下し、プリレコーデッド・アナウンス<ref group="※">Pre-Recorded announce。予め録音してあって緊急時に自動的に流れる、男性の声で乗客に[[シートベルト]]の着用やマスクの装着を指示した音声。</ref>が流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクを着用したほか、シートベルトを着用し、タバコを消すなど非常時の対応を行う。一部座席では着水に備え、[[救命胴衣]]の着用なども行われた。波多野チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示している。生存者の証言によれば、機内は異常発生直後から墜落までさほど混乱に陥ることはなく、全員落ち着いて行動していたという。その後、乗客は衝撃に備えるいわゆる「安全姿勢(前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる)」をとって、衝撃に備えた。乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、後に事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。一般的に墜落事故では、異常の発生から数分の余裕も無く墜落に至ることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から30分以上にわたって飛行を続けることができたため、遺書を書く時間があったまれなケースである。
[[デッドヘッド]]乗務の生存者によれば「客室乗務員は終始乗客のサポートをしていた」と語っており、機体後部に取り付けられていた[[ボイスレコーダー|コックピットボイスレコーダー
=== 地上との交信 ===
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=== コックピットと機体の状況 ===
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同じ頃、[[与圧|客室の気圧]]が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体には[[フゴイド運動]]や[[ダッチロール]]が生じ、[[ピッチング]]と[[ヨーイング]]、[[ローリング]]を繰り返した。そのため、墜落の瞬間まで頻繁に「あたま(機首)下げろ」「上げろ」という言葉が記録されている。
31分頃、航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が[[緊急降下]](エマージェンシー・ディセンド)と同時に酸素マスク着用を提案<ref group="※">酸素マスク着用を促す航空機関士に対して機長、副操縦士が同意するが、3名とも墜落まで着用した形跡はない。その理由については不明である。</ref>、35分、羽田空港にある日航のオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5のドア(機体右側最後部のドア)がブロークン(破損)しました」と連絡している<ref group="※">R5 のドアは墜落現場で破損していない状態で発見されている。航空機関士は機長に対して「'''R5付近の酸素が
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。これを回避するために、38分頃ランディング・ギアを降ろそうとするが油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
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クルーの努力も空しくJAL123便は降下し続け、18時56分14秒に[[対地接近警報装置]]が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右[[主翼]]が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。接触後、[[水切り]]のように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の破壊が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「あーダメだ!」もしくは「もうダメだ!」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字の形で公表されたが、この叫び声は判読不能とされている。
衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した。後の調査によれば、機体の大部分に数百[[重力加速度|G]]の衝撃が加わったとされ、両主翼も離断し炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇
即死したものも多かったものの、客室後部付近を中心に墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある<ref>『墜落の夏―日航123便事故全記録―』(吉岡忍・著、1986年8月、新潮社、ISBN 4-10-363001-9) </ref>。なお、墜落直後に現場上空を飛んだ米軍ヘリから「人命救助をする旨」の要請をするが、日本政府側がこれを断った。もし、この要請を受け入れていたら、先述の通り生存者がもう少し多かった可能性があった。
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また、当時の[[東京消防庁航空隊]]には[[サーチライト]]を搭載した[[アエロスパシアル]]製救助ヘリコプターが2機配備されていた。事故当夜は関係省庁からの要請に備え、いつでも出動できるように待機していたが、東京消防庁への出動要請はなかった。のちに運輸省・警察庁・防衛庁ともに、このヘリの存在を知らなかったことが明らかになった。東京消防庁も自ら出動を申し出なかった受身の姿勢だったこともあり、緊急時における縦割り行政の問題点が浮き彫りになった<ref>昭和60年8月28日「第102回国会 交通安全対策特別委員会」議事録中ほどにある、当時の衆議院議員・[[坂井弘一]]委員と運輸省航空局管制保安部長・中村資朗の質疑応答[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/102/0680/10208280680009a.html]</ref>。この消防ヘリについては事実の誤認が有り、[[前照灯|着陸灯]]を探照灯(サーチライト)と間違った可能性がある<ref name="gunmakenkei">元警察本部長・事故対策本部長著『日航機墜落―123便、捜査の真相』</ref>。なお、東京消防庁航空隊は13日に、陸上自衛隊が事故現場よりヘリで搬送した生存者4名のうち2名を上野村臨時ヘリポートで降ろした際に、同乗した前橋赤十字病院医師の判断で、救急車から消防庁の幹部移送のために駐機の消防ヘリに載せ替えて搬送している<ref name="gunmakenkei"/>。
民間機遭難を想定した当時の「航空機の捜索救難に関する協定」では、主に[[警察庁]]と[[運輸省]]([[航空局]])などが中心になっており、[[捜索救難]]の主体は警察が担うことになっていた。また、警察と各自衛隊との協力は防衛庁を通しての間接的な連携であり、航空自衛隊救難隊との直接の無線連絡はもちろんのこと、航空自衛隊中央救難調整所
=== アメリカ軍による救難活動の情報 ===
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=== 著名人やその関係者 ===
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▲; 関係者
▲* [[伊勢ヶ濱]]親方([[大相撲]]・元[[大関]]・[[清國勝雄]])の妻子
▲* [[吹田明日香]](タレント)の母
▲* [[ダイアナ湯川]](バイオリニスト)の父(銀行家)※ダイアナ湯川自身の出生は、事故から1カ月後。
など。
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== 事故調査 ==
運輸省航空事故調査委員会は、事故発生後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカから、[[国家運輸安全委員会]]
=== 事故の原因 ===
[[画像:Boeing B747 Aft Airlock.jpg|thumb|right|250px|ボーイング747型機の後部圧力隔壁(機内側より)]]
[[1987年]][[6月19日]]、事故調査委員会(委員長:武田 峻)は事故調査報告書を公表し、本事故の推定原因を発表した。その要旨は以下のとおりである<ref group="i" name="p128">事故調p.128 原因</ref>。
#
▲# 事故機の後部圧力隔壁が損壊し、その損壊部分から客室内の空気が機体後部に流出したことによって、機体尾部と垂直尾翼の破壊が起こった。さらに、4系統ある油圧パイプがすべて破壊されたことで作動油が流出し、操縦機能の喪失が起こった。
#
▲# 圧力隔壁の損壊は、隔壁の接続部の[[金属疲労]]によって発生した亀裂により、隔壁の強度が低下し、飛行中の[[与圧]]に耐えられなくなったために生じたと推定される。
▲# この亀裂の発生は、1978年に起きた同機の「しりもち事故」の際に、米国ボーイング社による修理が不適切なもの(修理交換した隔壁の下半分と上半分との接続強度が不足した状態)であったことに起因する。また、点検でこれらの異常を発見できなかったことも事故原因に関与したと思われる。
また、報告書では調査結果に基づき、大規模な機体の修理を行う場合は、その修理部分を特別に点検項目に加えて継続監視することや、与圧構造が損壊した場合の[[フェールセーフ]]性を耐空基準に追加することなどを勧告した<ref group="k" name="p129">事故調p.129 事故後に講じられた措置</ref>。
=== 報告書を
[[File:Rear pressure bulkhead B747 ja.svg|thumb|left|ボーイング747型機の後部圧力隔壁]]
==== 垂直尾翼の破壊 ====
事故調査報告書では、事故機の垂直尾翼の破壊過程については、尾翼の回収が部分的であるため、その詳細は特定できなかったとしている<ref group="h" name="69p">事故調p.69 破壊順序の推定</ref>。損壊した垂直尾翼については、事故から2か月以上が過ぎた1985年11月に、海上保安庁の協力を得て相模湾周辺の海底探査が行われたが、何も発見できずに打ち切られており、垂直尾翼の大半は回収されなかった。[[1986年]][[4月25日]]に行われた事故調査報告書の案を検討する聴聞会では、公述人として参加した技術関係者や学識経験者から、事故原因の究明に重要な要素である垂直尾翼の破壊過程が十分に解明されていないという意見が出た。また、尾翼の捜索も不十分であるという指摘もあった<ref name="shincho"/><ref name="fujita2003"/>。
==== 「急減圧」の存在 ====
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事故が起きた昭和60年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した<ref>[http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa61/ind000301/frame.html 昭和61年度 運輸白書 - 増大する航空輸送]</ref>。これに対し新幹線旅客は輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し同9.8%増となった<ref>[http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa61/ind000901/frame.html 昭和61年度 運輸白書 - 輸送動向]</ref>。
JA8119 の遭難直前のフライトである福岡発羽田行366便には、前日の11日に[[平和台球場]]で行われた[[中日ドラゴンズ|中日]]戦を終えた[[阪神タイガース]]のナインが、13日からの[[後楽園球場]]での試合に備え搭乗していたほか、日本航空の監督官庁でもある運輸省トップだった運輸大臣の[[山下徳夫]]も、[[三光汽船]]の会社更生法適用決定を受けて急遽佐賀県から帰京するために搭乗していた。
「日本航空123便」という便名は、1985年9月1日のダイヤ改正以降、[[欠番]]とされた。後に現在はこの便名と対となる「日本航空122便」も欠番扱いになった。
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事故当時、日本航空はそれまでの半官半民の[[特殊会社]]体制から完全[[民営化]]へと移行する方針を決定していたが、本事故の影響による経営の悪化、安全体制や経営姿勢に対する社会からの批判の受けて、政府主導により抜本的な体制の刷新が行われた<ref>毎日新聞「人事大幅刷新は首相の強い意向 自身が認める」1985年10月29日</ref>。1985年12月、当時の[[クラシエホールディングス|カネボウ]]会長・[[伊藤淳二]]が日航副会長に就任(のち[[会長]]昇格)し、経営体質の改革や長年の懸案であった同社の労働組合問題の解決に取り組むとともに「絶対安全の確立」を新たな経営方針の一つとして掲げ、機付整備士制度の導入や技術研究所の設置などの施策が行われた<ref>[http://www.jalcrew.jp/jfu/52sokuhou/no52222.pdf 日本航空乗員組合ニュース]</ref>。
[[2006年]][[4月24日]]、羽田空港整備地区に[[日本航空安全啓発センター]]が開設された<ref>[http://www.jal.com/ja/press/0000535/535.html JAL、安全啓発センターを開設](プレスリリース)</ref>。JA8119 残存機体の一部(後部圧力隔壁、垂直尾翼前側、後部胴体の一部、座席、フライトデータレコーダ、コックピットボイスレコーダなど)を含め、事故に関する資料が展示されている。社内向けの施設であるが一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。センター内は特別の場合を除き撮影禁止となっている。
=== 調査資料の廃棄とCVR音声の流出 ===
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=== 装備の更新 ===
当時の陸上自衛隊は夜間装備が十分ではなく、山間部での救難活動は行
これを教訓として、航空自衛隊[[航空救難団]]救難隊に、本格的な夜間の捜索救難が可能な[[赤外線暗視装置]]を装備した[[UH-60 ブラックホーク]]救難・救助ヘリコプターが[[1990年]]より順次調達・配備されている。なお、当時のKV-107救難ヘリでも山間部や洋上での夜間救難活動を行っており、機体側面の観測窓横には強力な救難用ライト4灯を装備していた。
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== 事故を題材にした出版物など ==
=== テレビ番組 ===
;『[[メーデー!:航空機事故の真実と真相]] 第3シーズン第3話・御巣鷹の尾根
:急減圧のために操縦士らに低酸素による意識障害が起こったという視点で製作されているため、ボイスレコーダーの音声等から考えられている実際の事故の状況とはやや矛盾した再現映像となっている。
;『[[衝撃の瞬間]]6 第5話 日本航空123便墜落事故(英語タイトル「TERRIFIED OVER TOKYO」)』(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
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=== 小説 ===
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=== 漫画 ===
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=== 演劇 ===
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=== 映画 ===
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=== 音楽 ===
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== 参考文献 ==
=== 運輸省 ===
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=== 航空事故研究 ===
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=== 関係者および報道による記録 ===
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=== 遺族による記録 ===
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== 類似事故・事件 ==
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* [[フィリピン航空434便爆破事件]] - [[ボーイング747]]、1994年。テロリストの持ち込んだ爆発物が座席下で爆発、床に穴を開け操縦系統を損傷。方向舵の操作が困難になったためエンジン出力のコントロールで帰還したものの多数の乗客が負傷した。
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== 出典 ==
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=== 事故調査報告書 出典 ===
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== 外部リンク ==
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{{CommonscatN|Japan Airlines Flight 123}}
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