「伏見街道」の版間の差分

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== 概要 ==
 
京都の五条通([[京都市]][[東山区]])を北の始点とし、鴨川東岸を南下して、伏見(京都市[[伏見区]])の[[京町通 (京都市)|京町通]]につながる街道である。[[豊臣秀吉]]によって開かれたといわれる。江戸時代から、京と港湾都市伏見とをつなぐ通運の道として、そして周辺名所を巡る観光の道として賑わった。また伏見から深草[[藤森神社]]までは西国大名の[[参勤交代]]の道ともなった(「大津街道」参照)
 
現在では都市間交通の役割を約1km西に並行する[[竹田街道]]などに譲って、地域の生活道路となっており、北側にある[[東山区]]あたりでは、'''[[本町通 (京都)|本町通]]'''(ほんまちどおり)、南側にある[[伏見区]]深草あたりでは'''[[直違橋通]]'''(すじかいばしどおり)と呼ばれる。
== 特徴 ==
=== 4つの橋 ===
東山の山麓から流れる川に対して、4本の橋が架けられ、それぞれ北から一ノ橋、二ノ橋、三ノ橋、四ノ橋といわれた。一ノ橋は[[山城国]][[愛宕郡]]と[[紀伊郡]]の境目に当たり、その名は古く[[平家物語]]などにも見える。明治6年架橋の三ノ橋(「伏水街道第三橋」)([[東山区]]本町)と四ノ橋(「伏水街道第四橋」)([[伏見区]]深草・藤森)は、今なお現役で、京都市内では貴重な石造[[アーチ橋]]である。一ノ橋、二ノ橋は掛けられていた川が暗渠化されてしまったため撤去されたが、三ノ古写真ではこれらも石造アーチや四であったことが分かる。一橋と同時期に設置された橋の親柱と欄干、一ノ橋は一橋小学校の校庭、二ノ橋の親柱が九条高架橋の下に残されている。
 
四ノ橋は、下に流れている七瀬川が蛇行して流れていたため流れに対し斜めに架けられる形となったことから直違橋といわも呼ばれ、通り名の由来にもなっている。一ノ橋から三ノ橋は比較的近接しているが、四ノ橋は比較的南の方に離れている。
 
=== 街道に沿った町割 ===
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