「夏侯嬰」の版間の差分

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劉邦が挙兵し反秦連合に参加して沛公となると、その功績により[[太僕]]に任命され、後に'''滕公'''に封じられる。その後、ずっと太僕として劉邦に従軍する。また、一介の下役人だった[[韓信]]の器量を見抜き、[[国士]]として推挙した一人である。
 
[[彭城の戦い]]で敗北した際に、夏侯嬰は劉邦と劉邦が連れてきた息子の劉盈(のちの[[恵帝 (漢)|恵帝]])と娘の[[魯元公主]]と共に逃げるが、追っ手に追いつかれると恐怖した劉邦は劉盈と魯元公主を馬車から突き落とす。夏侯嬰は2人を拾い上げたので、劉邦は怒って夏侯嬰を斬ろうとしたが、結局一行は揃って味方陣営へ逃げ帰ることが出来できた。これにより、劉一門からの信任が篤くなった。その功績で'''昭平侯'''に封じられた。
 
===元勲として===
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夏侯嬰の嫡子の[[夏侯竈]](夷侯)、孫の[[夏侯賜]](共侯)が世襲した。夏侯賜の嗣子の[[夏侯頗]]が亡父の跡を継いで、[[平陽公主]]([[景帝 (漢)|景帝]]の娘)を娶るが、夏侯頗は淫乱で亡父の側室と密通した廉(かど)により、[[紀元前115年|前115年]]に[[自決]]を命じられて死に、国は召し上げられた。[[宣帝 (漢)|宣帝]]の代になり、夏侯嬰の玄孫である[[夏侯信]]が夏侯家再興を許されたが、汝陰侯は与えられなかった。なお、夏侯頗の妻の平陽公主が「孫公主」と呼ばれていたことから、夏侯頗の子孫は「[[孫氏]]」を名乗るようになった。
 
ちなみに、夏侯竈の墓は[[1977年]]に[[安徽省]][[阜陽市]]で発見された。墓は早いうちから盗掘され、さらには墓道が[[第二次世界大戦]]の際に[[塹壕]]の被害に遭っていたものの妻の墓と隣り合わせになっていることや、出土品に「汝陰侯」とられていることから判明した。
 
[[後漢]]末期、[[魏 (三国)|魏]]の礎を創った[[曹操]]と共に挙兵した[[夏侯惇]]・[[夏侯淵]]らは夏侯嬰の末裔という<ref>『三国志』夏侯惇伝</ref>。また曹操の父[[曹嵩]]はもともと夏侯惇の叔父に当たる夏侯氏で、[[曹参]]末裔の宦官[[曹騰]]の養子になり曹の姓を名乗ることになったとの説がある<ref>『三国志』魏書武帝紀裴松之注『曹瞞伝』</ref>。