「築地ホテル館」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
画像追加。
7行目:
ホテルの開設について、[[小栗忠順]]は、「民間でこれを行なうものがあれば土地は幕府が無償で提供し、利益は経営者のものとしてよい。資金は民間から資本を募り、利益を出資金に応じて分配する。」とした。これに応じたのが、清水組(現在の[[清水建設]])の二代[[清水喜助]]で、工事だけでなく経営も引き受けることとなった。
 
[[慶応]]3年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]([[1867年]][[9月6日]])に建設着手、1年後の慶応4年[[8月10日 (旧暦)|8月10日]]<ref name="kaigen">改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。</ref>([[1868年]][[9月25日]])完成した。すでに幕府は瓦解しており、完成前月の[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]には江戸が[[東京]]と改められ、完成翌月の[[9月8日 (旧暦)|9月8日]](1868年10月23日)には明治と改元された<ref name="kaigen"/>。正式の開業日は、予定より1年遅れた東京開市に合わせた明治元年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]([[1869年]][[1月1日]])であるが、その前も仮営業し<ref>[[アーネスト・サトウ]]は自身の著「一外交官の見た明治維新」の中で、築地ホテルから食事を運ばせたり、そこを訪れたことを記述しているが、その日付は正式開業日前である。</ref>、宿泊客を受け入れていたようである。
 
完成したホテルの規模は、2階建ての本館(一部3階、塔屋付)と平屋からなり、延1619.7坪(約5354.4m&sup2;)、間口40.5間(約73.6m)、奥行34.0間(約61.8m)、102室。水洗トイレつき、[[ビリヤード]]室、シャワー室、バーも備えられていた。連日見物人が押し寄せ、[[錦絵]]が100種以上も作られ、江戸・東京の名所となった。