「ジョコンダ・デ・ヴィート」の版間の差分

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== 経歴 ==
1907年にイタリアの[[マルティーナ・フランカ]]に、中流の葡萄園主の娘として生まれ、[[1914年]]から地回り[[楽団]]の[[マスター]]について[[ヴァイオリン]]を学び、数年後には近くの[[ペサロ音楽院]]でレミー・プリンチペに師事したが、2年間であらゆる賞を総なめにしたため、中途で[[パリ音楽院]]に移る。[[1921年]]、[[ヴィオッティ]]の[[ヴァイオリン協奏曲第22番 (ヴィオッティ)|ヴァイオリン協奏曲第22番]]の第1楽章を弾いて同院を卒業、[[1921年]]に16歳で[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)|ヴァイオリン協奏曲]]を弾いて[[デビュー]]したが、演奏活動を本格化せず、パリ音楽院に留学して更なる研鑽を積んだ。同年、パリ音楽院のヴァイオリン科助手となるも、まもなく辞任。[[1932年]]に[[ウィーン国際ヴァイオリン・コンクール]]で優勝したが(25歳)、その後も余り演奏会には出演しなかった。[[1934年]][[聖チェチーリア音楽院|ローマ聖チェチーリア音楽院]]のヴァイオリン科教授に就任して後進の指導に当たり、[[1942年]]に35歳で[[ブラームス]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (ブラームス)|ヴァイオリン協奏曲]]で[[ローマ]]にデビュー(同曲には11年間もの研鑽を積んだという)、一躍イタリアヴァイオリン界の女王として楽壇の寵児となり、[[1944年]]37歳にして聖チェチーリア音楽院のヴァイオリン科終身教授に任命された。[[1946年]]訪[[イギリス|英]]して[[EMI]]の重役である[[ビックネル]]と知り合ったことが契機となり、[[1948年]]から同社で録音を始め、[[1951年]]にビックネルと結婚する。[[1962年]]4月に突然楽界から引退し、その後は二度と楽器を手にすることはなかったという<ref>中野。</ref>。引退後は[[イギリス]]の[[ハートフォードシャー]]で生活したが、1994年10月にローマで死去した<ref name="西条">別注記以外は西条による。</ref>。
 
== 愛器 ==