「朝比奈泰朝」の版間の差分

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永禄11年([[1568年]])12月、[[甲斐国]]の[[武田信玄]]が同盟を一方的に破棄して[[駿河国]]に侵攻。それによって氏真が駿河国を追われると、泰朝は氏真を[[掛川城]]に迎えて保護した。同年末には三河国の[[徳川家康]]が遠江国に攻め寄せている。家康は[[浜松城|曳馬城]]を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は氏真を見限って[[武田氏]]や[[徳川氏]]に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている。
 
掛川城を守る泰朝は5ヶ月に亘って奮戦したが、援軍の見込めぬ中での戦いには限りがあった。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は開城要求を受け入れ、[[伊豆国]]に退去することとなったが、この時も泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は[[上杉謙信]]の家臣・[[山吉氏]]に援助を要請するなどの活動を行っている。[[元亀]]2年([[1571年]])12月、氏真は家康を頼って[[浜松城]]に出向くものの、泰朝はこれには従わなかった。
 
泰朝のその後の消息は不明であるが、徳川氏の重臣・{{独自研究範囲|徳川氏の重臣・[[酒井忠次]]の家臣として仕えた説が有力である。|date=2012年12月}}
 
泰朝のその後の消息は不明であるが、徳川氏の重臣・{{独自研究範囲|徳川氏の重臣・[[酒井忠次]]の家臣として仕えた説が有力である。|date=2012年12月}}
== 小説 ==
*[[岩井三四二]]『難儀でござる』(光文社(光文社時代小説文庫)、2009年)