「オレステス・デストラーデ」の版間の差分

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|利き腕 = 右
|打席 = 両
|守備位置 = [[一塁手]]、[[外野手]]
|プロ入り年度 = {{by|1981年}}
|ドラフト順位 =
|選出方法 =
}}
'''オレステス・デストラーデ・ククアス'''('''Orestes Destrade Cucuas''' , [[1962年]][[5月8日]] - )は、[[キューバ]]出身の元[[プロ野球選手]]([[一塁手]]・[[外野手]])、野球解説者。
 
日本での愛称は'''オーレ'''、'''カリブの怪人'''<ref name="Number_19901120_42"/>。アメリカでは'''オー'''と呼ばれた<ref name="base_19890619_109"/>。
NPB初の[[スイッチヒッター]]での[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]となる<ref name="yomiuri_19961108"/>など、左右両打席から[[本塁打]]を量産し、1980年代から1990年代前半の[[埼玉西武ライオンズ|西武]]黄金期で最も印象に残った外国人選手とも言われる<ref name="base_mag_201109_25"/>。[[秋山幸二]]・[[清原和博]]と構成した[[クリーンナップ]]は[[AK砲|'''AKD砲''']]と呼ばれ、他球団に恐れられた<ref name="base_mag_201109_25"/>。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]では3年連続で初戦の第1打席に本塁打を放つなど、勝負強さと集中力を高く評価され、ミスター・コンセントレーションとも呼ばれた<ref name="Number_19901120_42"/>。左投手に強く、特に、1990年当時オリックスに在籍していた[[ガイ・ホフマン]]に対し、同一投手から一シーズン本塁打8本(サヨナラ本塁打を含む)を記録している。
 
シーズン二桁[[盗塁]]の経験が3度あるなど、走塁技術も低くなかった。もともと[[一塁手]]だったが西武では[[清原和博]]がいるため、主に[[指名打者]]を務めていた<ref name="base_19931115_132">『週刊ベースボール』、1993年11月15日号、P.132</ref>。日本シリーズでは一塁守備に緩慢な動きが見られ<ref>読売新聞、1991年10月24日付朝刊、P.18</ref>、MLB復帰後も[[指名打者|DH制]]のない[[ナショナルリーグ|ナ・リーグ]]でネックとなった<ref name="asahi_19941107"/>。また、1991年にスライディングの際に尾てい骨を圧迫骨折し、その後は背中の痛みが取れず毎日守備につくことが困難になっていた<ref name="base_19971013_114">『週刊ベースボール』、1997年10月13日号、P.114</ref>。[[1992年の日本シリーズ]]では[[左翼手]]としても起用されている<ref name="nihonseries_1992_1"/>。{{by|1989年}}6月20日から{{by|1992年}}8月5日にかけては423試合連続出場を果たしており、これはパ・リーグ外国人選手最長記録(2011年現在)である<ref>[http://pacific.npb.or.jp/bluebook/blu_crecords1.html パ・リーグ BLUE BOOK 個人打撃連続記録(1)]</ref>。
 
高校時代は[[投手]]もしており、{{by|1995年}}[[5月9日]]に[[富山市民球場アルペンスタジアム|富山アルペンスタジアム]]で行われた対オリックス戦では、0-9とリードされた8回裏2アウトから投手として登板した。[[高田誠 (野球)|高田誠]]に[[三塁打]]を打たれた後、[[トロイ・ニール]]と[[藤井康雄]]に[[四球]]を与え、結局1アウトも奪えずに降板した。監督の[[東尾修]]は「点差も離れていたのでファンサービスのつもりで登板させた」と話している<ref>読売新聞、1995年8月9日付朝刊、P.15</ref>。なお、デストラーデ自身は登板には驚いたものの楽しんでいたという<ref name="yomiuri_19961108"/>。