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死を悟ったジノヴィエフは、処刑される直前、同じく囚われの身のカーメネフに「[[イタリア]]と同じことがおきた」と心情を打ち明けた。カーメネフは「よせ、威厳を持って死んでいこう」と返答したのに対し、ジノヴィエフはイタリアの[[ベニート・ムッソリーニ]]が[[ローマ進軍]]で政権を奪取した例を出し、「ここソビエトでも[[ファシスト]]が[[クーデター]]を起こした」と述べ、嘆いたとされる。
 
助命嘆願を拒否されたジノヴィエフ(裁判官[[ヴァシリー・ウルリヒ]]へは[[ゲーペーウー|GPU]]副局長[[ヨシフ・ウンシュリフト]]から『いかなる助命嘆願も拒否せよ』と指令が出されていた)は、その日の深夜2時に裁判が行われた[[モスクワ労働組合会館]]近くの[[ルビャンカ]]の刑場にて[[ピストル]]による[[銃殺|銃殺刑]]に処された(正確には、兵士を伴った将校から独房から出るように言われて激しく抵抗し、その場で射殺された)。52歳だった。そして、ジノヴィエフの家族も有罪となり殺害され、彼の血筋は途絶えた。
 
== 死後 ==
ジノヴィエフの家族も有罪となり殺害され、彼の血筋は途絶えた。死後、52年後の[[1988年]]に[[ペレストロイカ]]に伴い、「歴史の見直し」の一環として名誉回復された。
 
==参考資料==