「若乃花幹士 (2代)」の版間の差分

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まだ30歳前であったが、師匠の娘と結婚後に別離し、年上の[[ホステス]]と情交関係を結び後に再婚する等の問題が影響したのか、協会内に引き止める者は少なかったと言われている。ただ、同期の隆の里は「あれだけの素質を持つ男がこのまま引退とは惜しい。あと一ヶ月もすれば次の場所が来るから、そこで賭けるべきだ」と最後まで引き止めた。
 
1983年12月に二子山部屋から分家独立して[[間垣部屋]]を興し、[[若闘将敏男|若闘将]]に始まり、[[若ノ城宗彦|若ノ城]]や[[五城楼勝洋|五城楼]]、[[大和剛|大和]]、[[若ノ鵬寿則|若ノ鵬]]の[[幕内]]力士を育てた。若闘将が十両に昇進したときは、『親方(初代若乃花の二子山親方)の[[定年|停年]]までに関取を育てることができて良かった』と心の底から安堵した様子だった。しかし部屋からはまだ[[三役]](小結以上力士は出ることは遂になかった。
 
[[1998年]]1月には[[境川_(相撲)|境川]]理事長(横綱・[[佐田の山晋松|佐田の山]])の[[年寄名跡]]改革私案に反対し[[日本相撲協会]]理事選挙に立候補、史上初めて投票選挙になったが初当選し、それまでの[[一門_(相撲)|一門]]2理事枠を破る。協会内では、大阪場所担当部長を約10年間務めた。
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[[2005年]]末に夫人に先立たれるという不幸に見舞われる。それを乗り越えた矢先の[[2007年]]3月13日昼頃、3月場所開催中の[[大阪府立体育会館]]内で、突然[[頭痛]]を訴えて倒れ、[[脳出血]]の疑いで[[大阪市]]内の病院に緊急入院し、手術を受けた。一命は取り留めたが、その後車椅子生活を余儀なくされる。又脳出血の影響により体重は30Kgも落ちていた。同年11月場所に若ノ鵬が新入幕を果たし、[[番付]]発表後の記者会見で久々に公の場に姿を見せ、涙を流し愛弟子の昇進を喜んだ。[[2008年]]2月、役員改選に立候補して6選を果たした。
 
2008年5月場所の4日目([[5月14日]])の部屋での朝稽古中に[[序二段]]力士の弟子を[[竹刀]]で叩くと言う暴行事件を起こし、太ももなどに全治一週間の打撲と擦過傷を負わせた
<ref name="東京新聞 2008年5月18日付朝刊">{{cite web
| url =http://www.tokyo-np.co.jp/article/sports/news/CK2008051802012216.html
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[[2011年]][[11月7日]]、故郷の青森から夜行列車で二人して上京、二子山部屋に同期入門・初土俵も一緒で、そして共に横綱昇進を果たした元・隆の里の鳴戸親方が、急性[[呼吸不全]]により59歳で急逝。当日夕方に行われたお別れの会では、亡骸に向かいながら「お前何しているんだ、寝てる場合じゃないだろう。早く起きろ」と声を掛けたという。その後の記者会見では「自分が一歩早く(上位に)上がっても、必ず追い掛けてきた。とにかく根性があった。良い弟子に恵まれ、これからという時だったのに…」と語りながら涙ぐんでいた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/11/07/kiji/K20111107001982480.html?feature=related 悲しみに暮れる角界関係者 福岡で急きょ「お別れ会」] スポーツニッポン 2011年11月7日閲覧</ref><ref>[http://digital.asahi.com/articles/SEB201111070049.html 猛稽古の師 光と影抱え急逝 元横綱隆の里、鳴戸親方] 朝日新聞デジタル 2011年11月10日閲覧</ref>。
 
師匠としては特に2007年以降、脳出血の後遺症もあって十分に指導が出来ない状態が続いていた。二所ノ関一門を離れる以前は、一門の他の部屋から手の空いた親方が派遣されて稽古を見ていた様子である。しかし、やはり体調不良で部屋の経営が困難となり、[[2013年]]3月場所限りで部屋の閉鎖、ならびに18代間垣や所属力士らが一門外の[[伊勢ヶ濱部屋]](伊勢ヶ濱一門)<ref>元横綱[[旭富士正也]]の伊勢ヶ濱親方と2代目若乃花は同じ青森県出身の同郷。</ref>へ移籍することがついに決定し、同年3月25日付で間垣部屋は閉鎖となった。同年4月3日に満60歳の[[還暦]]を迎えたが、[[還暦土俵入り]]は実現出来なかった(還暦土俵入りをしなくても赤い横綱だけを記念に作る例もあるが、作成の有無は不明)
 
== 主な成績 ==