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[[画像:Grave of Akamatu Harumasa and his sister.jpg|thumb|長福山松安寺跡に残る赤松晴政の墓(右)]]
[[画像:Grave of Akamatu Harumasa.jpg|thumb|晴政の墓石。]]
'''赤松 晴政'''(あかまつ はるまさ、[[永正]]10年([[1513年]])? - [[永禄]]8年[[1月16日 (旧暦)|1月16日]]([[1565年]][[2月16日]]))は、日本の[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]、[[大名]]。[[赤松氏]]の当主。[[赤松義村]]の子。[[赤松義祐]]、[[赤松則家]]、女子([[赤松政秀]]妻)、女子([[三木通明]]妻)の父。才松丸。次郎。初名、'''政村'''(まさむら)、'''政祐'''(まさすけ)。従五位下。左京大夫。[[播磨国]]、[[備前国]]、[[美作国]]の守護。播磨[[置塩城]]を居城とする。生年は[[1495年]]説もある。
 
== 略歴 ==
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[[1531年]]、村宗は[[細川高国]]を擁して[[細川晴元]]と対立し、[[摂津国]]に侵攻した。この時、政祐(当時の諱)は高国、村宗の後詰めとして着陣したが、実は堺公方の[[足利義維]]へ密かに質子を送って裏切りを確約していた。同年6月4日、[[神呪寺]]にいた政祐が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。予想外の攻撃を受けた高国・村宗軍は晴元軍の前に大惨敗を喫し村宗は戦死。高国も自害へと追い込んだ([[大物崩れ]])。
 
これにより晴政は権力をある程度は回復したものの、村宗の子である[[浦上政宗]]や[[浦上宗景]]との対立はその後も続いた。さらに[[1538年]]、[[出雲国]]から尼子詮久(後の[[尼子晴久]])が侵攻を始めてきたため、晴政の領国は混乱し、一時[[別所氏]]を頼って[[三木城]]に逃れたが、やがて[[別所氏]]も[[尼子氏]]と通じたため、[[堺]]へ逃亡することになる。[[1540年]]から[[1541年]]にかけて[[安芸国]]の[[吉田郡山城]]の戦いでは、尼子晴久・久幸の軍と[[毛利元就]]・[[大内義隆]]方の陶隆房(後の[[陶晴賢]])の軍が衝突し、尼子が大敗北を喫して、[[尼子久幸]](経久の弟)が戦死。尼子が[[毛利元就]]に敗れたため、播磨からは撤退し危機は去ったものの、赤松氏の権威は再び失墜する。将軍[[足利義晴]]より「晴」の字を賜り'''晴政'''(はるまさ)と改名したのもこの時期である。その上、[[1552年]]には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられ、晴政は守護としての2国の権限を取り上げられるに至る。赤松家中の主導権は浦上政宗に握られており、[[1558年]]には政宗が擁立する嫡子[[赤松義祐]]と対立し、娘婿の[[赤松政秀]]の居城[[龍野城]]に逃れ、政秀の庇護の下で義祐・政宗と争った。[[1565年]]死去する。
 
墓所は[[松安寺]](現在は廃寺)に存在する。
 
 
== 偏諱を与えた人物 ==
'''政村時代'''
: ''→ [[赤松義村#偏諱を与えた人物]] を参照のこと。''
 
'''政祐時代'''
: **
 
'''晴政時代'''
*[[赤松政秀|赤松'''政'''秀]](従兄弟・娘婿、宇野政秀とも)
*[[浦上政宗|浦上'''政'''宗]]
*[[小寺政職|小寺'''政'''職]]
 
 
== 関連項目 ==