「クラーク・アシュトン・スミス」の版間の差分

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== 経歴 ==
カリフォルニア州のプレサー郡ロングバレーの母の実家で生まれる。父は[[イギリス]]から金鉱を探しに来ていて、母は地元の農家の娘であったが、1907年にボウルダーリッジに転居する。スミスは幼少時は体が弱く、読書を好み、11歳頃から[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]童話集を手本に童話を書き始め、やがて『[[千夜一夜物語]]』や[[キップリング]]の影響で小説を書くようになる。その後[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]や英訳された『[[ルバイヤート]]』に触れて詩作に取り組み、カリフォルニア在住の詩人[[ジョージ・スターリング]]に特に感化を受けた。この時期、ラテン語を独学で習得し、また[[ノア・ウェブスター辞典|ウェブスター辞書]]や[[ブリタニカ百科事典|ブリタニカ]]を通読するなどして、文体の訓練に励んだ。また[[ウィリアム・トマス・ベックフォード]]『ヴァテック』を愛読していた。
 
1910年に地元紙『オーバーン・ジャーナル』に詩が売れて、同年から1912年にかけて、東洋を舞台にした4編の短編小説が『オウヴァーランド・マンスリー』『ブラック・キャット』各誌に掲載された。これにより招待された婦人クラブを通じてスターリングに紹介され、詩作について助言を得るようになる。さらにバウトウェル・ダンラップによりサンフランシスコ、次いで東海岸にも紹介される。この1912年に最初の詩集『星を踏み歩くもの (''Star-Treader and Other Poems'')』を出版。その後は両親の農作業を手伝いながら詩作を続け、1918年頃から絵画も描き始める。1918年に第二詩集『頌と十四行誌 (''Odes and Sonnets'')』、1922年、25年に第三、第四詩集を出版。1922年に、スミスの詩を読んだ[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]から手紙が届き、文通が始まり、1923年にラヴクラフトの「潜み住む恐怖」が連載されたときには挿絵を提供した。1923年に創刊された『[[ウィアード・テイルズ]]』誌の7・8月合併号にスミスの詩「邪悪の園」が掲載され、ラヴクラフトとともに同誌の人気作家となっていく。1923年4月から26年1月まで『オーバーン・ジャーナル』誌でコラムを連載して、収入も安定した。