「エリザベス・ギャスケル」の版間の差分

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== 生涯 ==
エリザベス・スティーブンソンは、1810年、[[ユニテリアン主義|ユニテリアン派]]の元牧師の末娘として、[[ロンドン]][[チェルシー_(ロンドン)|チェルシー]]で生まれた。1歳で母を亡くすと、[[マンチェスター]]南部の田舎町ナッツフォード(Knutsford)に住む母方の伯母に引き取られた。父の再婚によって生じた継母や異母弟妹との気まずい関係や、ただ一人の兄や父を相次いで亡くす不幸に苦しむことはあったが、概して平穏な幼少、青年期であった。21歳で父と同じ宗派の牧師ウィリアム・ギャスケル(William Gaskell)と結婚してマンチェスターに移り住むと、よき妻よき母として家庭を支えた。「いつもにこやかで穏やかでいらっしゃるから、回りにいる者はみな性格の一番よい面が出てしまう」とは、夫の生徒による夫人の印象である。34歳の時授かった長男を9ヶ月で病死させることがなかったら、作家エリザベス・ギャスケルが誕生することはなかっただろう。悲しみを癒すために書いた『メアリ・バートン』が、出版4ヶ月にして3刷りが出るほどの好評を博したのである。
彼女は一躍文壇に認められ、以降、英文学史に名を残す作家たちと交わることになる。「あなたの創作力は、少なくとも千一夜は続くに違いない」と書いて、彼女を[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%89 [シェヘラザード]]にたとえた[http://wwwsoc.nii.ac.jp/dickens/チャールズ・ディケンズ]。互いの人格と文学を尊敬しあい、自宅を訪ねあった[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%86 [シャーロット・ブロンテ]]。そして、「私の人生観や芸術観は、『メアリ・バートン』の作者のそれと似た部分がある」と告白した[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88 [ジョージ・エリオット]]、等々。
聡明で善良な性格であったギャスケルは、ディケンズのような個性の強烈さには欠けたが、善意をもって社会問題を捉え、ペーソスとユーモアに満ちた文体によって、特に中流階級の読者を教化することができた。[[ジョルジュ・サンド]]は「ギャスケル夫人の作品を読めば、それだけいい人間になることができる」と言っている。
ギャスケルは、その後17年間に、長篇小説『ルース』『北と南』『シルヴィアの恋人たち』をはじめ、『クランフォード』『従妹フィリス』などを含む約40におよぶ中・短篇小説、および伝記『シャーロット・ブロンテの生涯』を著す。今日私たちがブロンテ姉妹を知るのは、この伝記によるところが大きい。長篇『妻たちと娘たち』の完成を目前に控えた1865年秋、ハプシャーに買った別荘で急逝。55年の生涯に幕を閉じた。
 
== 主要作品 ==
* [[イギリス文学]]
* [[ヴィクトリア朝]]
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/ディケンズ [チャールズ・ディケンズ]]
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/ブロンテ姉妹 [ブロンテ姉妹]]
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・エリオット [ジョージ・エリオット]]
* [http://ja.wikipedia.org/wiki/[ジェイン・オスティン ジェイン・オースティン]]
 
== 外部リンク ==
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