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[[紀元前245年]]に趙の名将であった[[廉頗]]が悼襄王の不当な人事で解任されたことを怨んで後任の将軍である[[楽乗]]を破って趙を出奔した。だがこのため、趙に名将がいなくなって[[秦]]の標的とされたため、悼襄王は廉頗を呼び戻そうとした。しかし郭開は廉頗が趙にいた頃から対立していたため、悼襄王の使者の前で元気な姿を見せて帰参を承知した廉頗であったが、郭開はこの使者を買収して悼襄王に対して「三度遺失」と虚偽の報告をさせた(廉頗が使者の前で3度小用に立った。廉頗が使者の前で3度失禁したという2つの意味がある。どちらの意を取るかは諸説あって不明)。このため、悼襄王は廉頗が使い物にならないとして帰参を許さなかった。
 
[[紀元前229年]]、[[秦]]の[[始皇帝]]は天下統一のため、趙に対して[[王翦]]、[[羌カイ|羌瘣]]らを将とした軍を送った。趙の幽繆王は当時の趙の名将であった[[李牧]]と[[司馬尚]]に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし李牧は応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡。王は李牧に対して刺客を送って葬り去った。この3ヵ月後に趙は秦に攻められて滅亡した。
 
郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだといえる。