「山名氏」の版間の差分

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安海 (会話 | 投稿記録)
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=== 江戸時代 ===
 
但馬山名氏[[山名堯熙]]([[寛永]]6年1629年或いは寛永4年没)の子[[山名堯政]]は[[豊臣秀頼]]に近侍し、 [[1615年]]([[慶長]]20年)の[[大坂夏の陣]]で、 [[大坂城]]内で山名氏を継がずに若くして戦死。堯政の子、恒豊(8歳)は親を亡くし、主家も滅亡、仕官先も、有力な家臣も無く、実質上、山名を継げるはずも無かった。([[山名堯熙|堯熙]]は生き延び、[[山名豊国|豊国]]が、庇護した模様。堯熙の墓は、[[東林院]]の豊国の墓の左側の墓。との説が、ある。)<ref>清水氏流山名氏一門の一部では、

恒豊(8歳)が微臣らに支えられ山名氏を継承するも徳川家から、山名姓のままでの'''徳川'''への仕官は許されなかった。同族の長老である山名豊国の助言もあ計らいにより、すでに徳川家臣となって武功もあげていた山名家旧臣[[清水正親]]の養子となって清水姓を名乗るという手続きをふむという条件によって、恒豊が晴れて徳川家の幕臣となること許された(家康自身は直ぐにでも新田氏嫡流の山名恒豊を召抱えたかったが、幕政のてまえ、豊臣旧臣を召抱えることを憚ったとされる)。
 
恒豊の子、清水煕豊は山名姓への復帰を願い嘆願するも、豊臣遺臣を警戒する初期の江戸幕府からは許されなかった。
しかし江戸時代中期になって改姓の願いが叶う。[[1700年]]([[元禄]]13年)3月2日に恒豊の孫、清水時信が[[徳川綱吉]]から特別の許しを得、山名姓に改姓、'''山名時信'''と称した。以後山名氏嫡流[[山名時氏]]に因む「時」字を通字として幕末まで代々続く(微禄ながら、以後の将軍から山名家嫡流として遇された)と、している。が、無理が有る。8歳の子供が実質、家を継ぐ事が出来たか、疑問?。自称する事は誰でも出来るが。都合よく、主家[[豊臣家]]を滅ぼした、徳川の名を度々持ち出し、権威付けようと、創られた家伝の可能性も有る。二通りの意見が有り、片方の意見を一方的に削除するのは如何なものか?</ref> 山名豊国は自らの養子にしようと試みるも叶わず、豊国の助言もあり、すでに徳川家臣となっていた山名家旧臣[[清水正親]]の養子となり清水氏を称した。清水氏の家督を継承。後、豊国の尽力により、幕臣に列する事が出来た。
 
しかし江戸時代中期になって改姓の願いが叶う。[[1700年]]([[元禄]]13年)3月2日に恒豊の孫、清水時信が[[徳川綱吉]]から特別の許しを得、山名姓に改姓、'''山名時信'''と称した。以後山名氏嫡流[[山名時氏]]に因む「時」字を通字として幕末まで代々続く。微禄ながら、以後の将軍から山名家嫡流として遇された。
江戸時代中期になって改姓の願いが叶い、<ref>当時[[山名豊国|豊国]]が「山名の氏は我が家系に限る」としていた。豊国の子孫が許可し、幕府が改姓届けを受理し、認めた。が妥当では。</ref>[[1700年]]([[元禄]]13年)3月2日に恒豊の孫、清水時信が山名姓に改姓、'''山名時信'''と称した。「 時」字を通字として幕末まで 続く。但馬山名氏(清水氏流山名氏)嫡孫は<ref>但馬山名氏は堯熙が最後で、消滅。恒豊以降は、清水氏の、養子となり、清水氏の家督を継承。たとえ、80年後、山名に改姓しても、但馬山名氏とは別家で有り、区別をし、清水氏流山名氏とするのが、正解。 一部で、恒豊の孫が山名に改姓した時点で、豊国は、山名宗家を清水氏流山名氏に、返上すべきだった。とか、或いは、豊国の家系を、ことさら蔑む投稿をする者が居るが、豊国の方にこそ血縁的に、正当性がある。清水氏流山名氏一門が、初代としている、恒豊の墓を、無縁墓にする家系が宗家では情けないし、他家を継いだ者の子孫が、先祖 の姓に改姓しても、正当性、資格は無い。
 
</ref>は明治を迎え他の幕臣同様、石高のみをもって[[士族]]とされてしまった。
江戸時代中期になって改姓の願いが叶い、[[1700年]]([[元禄]]13年)3月2日に恒豊の孫、清水時信が山名姓に改姓、'''山名時信'''と称した。「 時」字を通字として幕末まで 続く。但馬山名氏嫡孫は明治を迎え他の幕臣同様、石高のみをもって[[士族]]とされてしまった。
 
 
 
また一方、因幡守護家の[[山名豊国]](祐豊の甥で娘婿)は恩ある豊臣家ではなく[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]では[[徳川家康]]方についた。運良く徳川方が勝利したため、[[1601年]](慶長6年)、豊国は家康から但馬村岡に6700石の所領を与えられた。江戸時代の家格でいうと大名の列からは外れる旗本である。しかし山名家は徳川とおなじく新田一族ということで大名待遇の[[交代寄合]]表御礼衆という家格に列せられた。さらに旧因幡守護家であることから[[屋形号]]も許された。豊国は山名宗家は豊国が継承した。豊国は「山名の嫡流は我が家。山名の[[氏]]は我が[[家系]]に限る。」とした。<ref>豊国の家系と、その菩提寺が、伝承を捏造し、宣伝 している。と、清水氏流山名氏一門の子孫の一部と思われる者が、主張している。</ref>
 
江戸時代中期の[[山名義徳]]は九州の筑後柳川藩主家(大名)である'''[[立花貞俶]]'''の子として生まれ、山名家に養子に入り旗本家を継承した。
一方、因幡守護家の[[山名豊国]](祐豊の甥で娘婿)は恩ある豊臣家ではなく[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]では[[徳川家康]]方についた。運良く徳川方が勝利したため、[[1601年]](慶長6年)、豊国は家康から但馬村岡に6700石の所領を与えられた。江戸時代の家格でいうと大名の列からは外れる旗本である。しかし徳川家とおなじく新田一族ということで大名待遇の[[交代寄合]]表御礼衆という家格に列せられた。さらに旧因幡守護家であることから[[屋形号]]も許された。山名宗家は豊国が継承した。豊国は「山名の嫡流は我が家。山名の[[氏]]は我が[[家系]]に限る。」とした。<ref>豊国の家系と、その菩提寺が、伝承を捏造し、宣伝 している。と、清水氏流山名氏一門の子孫の一部と思われる者が、主張している。</ref>
 
 
幕末の動乱では、旗本の山名家は徳川氏に従わず明治政府側に従った。その結果ではあるが[[1869年]]([[明治]]2年)、[[山名義済]]1万1,000石への高直し明治政府に認められ大名となり、新たに但馬[[村岡藩]]を立藩した(まもなく廃藩置県となる)。[[1884年]](明治17年)、山名氏は[[男爵]]に列せられた(他の一般の大名は子爵以上だった)
 
==山名氏 - 但馬守護 - 御家人==