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幼少時から種々の言語に関心を覚え、大学卒業後は、語学の教師をしていたが、学問上の労作は、[[マリ語|チェレミス語]]の実地踏査の結果を発表に始まる。モンゴル、東トルキスタン、アフガニスタン国境地帯の学術探検隊に参加。
 
[[1920年]][[2月12日]]、ラムステッドはフィンランド初代公使として東京に着任した。なお[[中国]]と[[シャム]](現タイ)の公使も兼任した。当時彼は[[ヘルシンキ大学]]教授であった。日本滞在中は外交官としての活動のかたわら、言語学者としても研究を行い、[[白鳥庫吉]]の紹介により[[東京大学|東京帝国大学]]で招待講師として教壇に立っている。このときの受講者の一人に[[柳田男]]がいた。ラムステッドは自らの研究を元に、[[日本語]]の[[アルタイ諸語]]起源説を唱えた。ラムステッドに影響を受けた研究者には[[柳田]]のほか、言語学の[[新村出]]、[[金田一京助]]、朝鮮研究の[[小倉進平]](1882~1944)、イスラーム及びトルコ学者の[[内藤智秀]]等がいる。
 
また、[[1926年]]12月に行った講演には、[[宮沢賢治]]が聴衆として参加していた。賢治はラムステッドの講演内容に感銘を受け、講演後に会話を交わし、後に自著(『[[春と修羅]]』『[[注文の多い料理店]]』)を贈呈している<ref>賢治が贈った2冊の著書がフィンランドに現存し、そのうち『注文の多い料理店』にはラムステッドによる書き込みが残されていることが確認されている(出典:佐藤泰平「フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本」、『宮沢賢治研究Annual Vol.2』1992年、宮沢賢治学会イーハトーブセンター)。</ref>。また、「著述には[[エスペラント]]が一番」とラムステッドに言われたのを受けて、賢治はエスペラントを勉強し、自作の詩や俳句の翻訳を試みた。