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* 埼玉西武ライオンズ (2012 - )
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'''奈良原 浩'''(ならはら ひろし、[[1968年]][[5月16日]] - )は、[[埼玉県]][[南埼玉郡]]白岡町(現・[[白岡市]])出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、野球指導者。{{by|2012年}}より、[[埼玉西武ライオンズ]]のコーチを務めている
 
== 来歴・人物 ==
=== アマチュア時代 ===
[[帝京中学校・高等学校|帝京高等学校]]から[[青山学院大学]]へ進学。東都大学リーグ通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。[[1990年]]春季のリーグ戦で首位打者になる。2年生秋季のリーグ戦から5季連続で遊撃のベストナインに選ばれた。[[1990年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1990年のドラフト]]2位で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に入団。守備力と走力は高かったが打撃が振るわなかったため、主に終盤での[[代走]]・[[守備固め]]要員として黄金時代を支えた。
[[埼玉県]]白岡町で[[ドライクリーニング|クリーニング店]]を営む家庭に生まれる<ref name="base_20021021_56">「新野球浪漫 男たちの詩 23回 勝利のスパイス 奈良原浩 たとえ小柄でも、頑張ればプロで通用するんだという気持ちになった」『[[週刊ベースボール]]』、2002年10月21日号、P.56</ref>。4歳頃に[[軟式野球]]の[[ボール (野球)|ボール]]と[[グラブ (野球)|グローブ]]を買ってもらい、父と仕事の合間などにキャッチボールをするようになった<ref name="base_20021021_56"/>。[[白岡市立篠津小学校|篠津小]]ではスポーツ少年団で野球をし、[[白岡市立篠津中学校|篠津中学]]を経て[[帝京中学校・高等学校|帝京高校]]に進学<ref name="base_20021021_57">『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.57</ref><ref name="mainichi_19981124"/>。帝京では練習時間の2/3が守備練習に充てられ、監督の[[前田三夫]]の優れたノックで守備を鍛えられたという<ref name="base_20021021_57"/>。1学年上には[[河田雄祐]]と[[小林昭則]]がおり、チームは2年春の[[第57回選抜高等学校野球大会|選抜大会]]で準優勝している。主将となった3年春も[[第58回選抜高等学校野球大会|選抜大会]]に出場し、初戦で[[高知中学校・高等学校|高知高校]]と対戦して自身は1番・[[遊撃手]]として2[[安打]]1[[盗塁]]の成績を残したが、チームは0対3で敗れている<ref>朝日新聞、1986年3月31日付朝刊、P.19</ref>。
 
[[青山学院大学硬式野球部|青山学院大学]]へ進むと、2年の秋に[[遊撃手]]として[[東都大学野球連盟|東都リーグ]]のベストナインに満票で選ばれ、チームも優勝した<ref>読売新聞、1988年11月4日付朝刊、P.19</ref>。3年春のリーグ戦ではリーグ5位の打率を残してベストナインに選ばれ<ref>読売新聞、1989年5月27日付朝刊、P.18</ref>、同年は[[日米大学野球選手権大会|日米大学野球]]の代表にも選ばれた<ref>読売新聞、1989年6月10日付朝刊、P.19</ref>。3年秋、4年春・秋もベストナインに選ばれ、特に4年春は首位打者も獲得している<ref>読売新聞、1989年10月27日付朝刊、P.18</ref><ref>読売新聞、1990年5月24日付朝刊、P.19</ref><ref>読売新聞、1990年10月26日付朝刊、P.18</ref>。また同年も日米野球の代表に選ばれ、東都大学リーグでは通算77試合出場、251打数77安打、打率.307、1本塁打、24打点。[[1990年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1990年のドラフト]]2位で[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に指名され、契約金と年俸それぞれ6,000万円、840万円(いずれも推定)で入団契約を結んだ<ref>読売新聞、1990年12月21日付朝刊、P.19</ref>。
{{by|1997年}}オフに[[西崎幸広]]との交換トレードで[[石井丈裕]]とともに[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に移籍すると、遊撃手あるいは二塁手として[[スターティングメンバー|スタメン]]で起用されることも多くなった。初めて[[規定打席]]にも到達し、打率2割8分、30盗塁という好成績を残した。その後も準レギュラー的な存在でチームを支え、毎年100試合前後の出場を続けていく。安定した守備と俊足に加え、[[ビッグバン打線]]という大味な野球をしていた当時のチームにあって、[[犠牲バント]]・[[盗塁]]等の小技を売りとする選手であった。
 
=== プロ野球選手時代 ===
[[file:CD-Hiroshi-Narahara.jpg|left|thumb|中日コーチ時代(2008年6月25日、阪神鳴尾浜球場)]]
==== 西武ライオンズ ====
{{by|2006年}}6月に、金銭トレードにより[[中日ドラゴンズ]]に移籍。中日では[[川相昌弘]]、[[デニー友利]]に続く「一芸に秀でたベテラン選手」として期待され、主に後半の代走や二塁・三塁守備固め要員として出場。以後、閉幕まで出場選手登録を外れることなく、随所で活躍し優勝に貢献した。中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対[[読売ジャイアンツ]]戦で延長12回表、[[福留孝介]]の決勝タイムリー、[[タイロン・ウッズ]]の満塁ホームランの後に放った[[適時打]]であった。同年シーズン限りで現役を引退し、二軍内野守備走塁コーチに就任した。一塁コーチャーを務めたのち、{{by|2011年}}より二軍野手コーチとなった。2011年10月6日付けで退団が発表された。2012年より、最初に所属した埼玉西武ライオンズの一軍守備走塁コーチに就任した。
プロ1年目の{{by|1991年}}からコーチの[[伊原春樹]]には「走塁と守備でプロとして食っていける」という高い評価を受け<ref name="base_20021021_58">『週刊ベースボール』、2002年10月21日号、P.58</ref>、4月21日には初めてスタメンで起用されるなどシーズンで70試合に出場した。[[1991年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第1戦で[[代走]]としてシリーズ初出場を果たした<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1991_1.html 日本野球機構 1991年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)]</ref>。
 
{{by|1992年}}は[[田辺徳雄]]の守備固めとして試合終盤にたびたび起用された<ref name="Number_19930120_48">「ベースボール・ルネッサンス1993 クローズアップ 奈良原浩 他のプレーヤーが飛びついて捕るような打球を正面でさばく。」『[[Sports Graphic Number]]』、1993年1月20日号、P.48</ref>。[[1992年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]では第3戦の8回に[[伊東昭光]]からシリーズ初安打、初打点を記録している<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1992_3.html 日本野球機構 1992年度日本シリーズ 試合結果(第3戦)]</ref>オフには380万円増の年俸1,700万円(推定)で契約を更改した<ref>読売新聞、1992年12月5日付朝刊、P.21</ref>。
日本ハム時代から[[北海道]]にファンが多く、中日コーチに就任してからも、毎年シーズンオフに[[札幌市]]で「奈良原後援会主催のパーティー」に参加している。[[東京ヤクルトスワローズ]]の[[宮本慎也]]は「守備が上手いと思う遊撃手は?」という質問に対して、必ず奈良原の名前を挙げている。
 
{{by|1993年}}は遊撃手として49試合にスタメンで出場するなど、110試合に出場。日本シリーズでは第1戦で9番・遊撃手としてシリーズで初めて先発出場し、2安打1得点の成績を残した<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/boxscore1993_1.html 日本野球機構 1993年度日本シリーズ 試合結果(第1戦)]</ref>。{{by|1994年}}は5月7日の対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦で送りバントした際に一塁上で転倒し、[[鎖骨]]を骨折して全治2ヶ月のケガを負っている<ref>読売新聞、1994年5月8日付朝刊、P.13</ref>。
 
{{by|1995年}}は[[松井稼頭央]]と併用され、遊撃手として46試合にスタメンで出場し、2年ぶりに出場試合数が100試合を超えた。{{by|1996年}}は田辺とともに主に[[二塁手]]として起用され、53試合に先発出場し、22盗塁を記録している。{{by|1997年}}は[[高木浩之]]が二塁手として先発出場する事が多く、出場試合数は100試合を割っている。同年10月30日に[[西崎幸広]]との交換トレードで[[石井丈裕]]とともに[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に移籍した<ref><朝日新聞、1997年10月31日付朝刊、P.31</ref>。この際、日本ハム監督の[[上田利治]]はトレード要員として奈良原と[[投手]]1名を要求し、他の野手なら交渉は破談にすると宣言したため、西武監督の[[東尾修]]はやむを得ず承諾したという<ref name="number_19980730_153">「BASEBALL 西武野球の粋を知るつなぎ役・奈良原浩が日ハムにもたらした効果。」『[[Sports Graphic Number]]』、1998年7月30日号、P.153</ref>。
 
==== 日本ハムファイターズ、中日ドラゴンズ ====
{{by|1998年}}は開幕当初は二塁手、遊撃手の守備固めとして起用されていたが、打撃不振に陥った[[金子誠]]に代わってスタメンで起用されると3割を超える打率をマークし、5月19日から2番・二塁手のレギュラーに定着した<ref name="base_19981026_60">「新天地1年目を振り返る 奈良原浩 念願のシーズンフル出場も『喜び』と『悔しさ』の1年」『週刊ベースボール』、1998年10月26日号、P.60</ref>。その後、右肩を痛めた[[田中幸雄_(内野手)|田中幸雄]]が6月下旬から一塁手にコンバートされたため、2番・遊撃手となっている<ref name="base_19981026_60"/>。夏場は体調維持に苦しんだが、自身初の[[規定打席]]に到達し、[[ビッグバン打線]]の中で貴重なつなぎ役となった<ref name="number_19980730_153"/><ref name="base_19981026_60"/>。同年はリーグ2位の30盗塁、同5位の[[出塁率]].388を記録し<ref name="mainichi_19981124">毎日新聞、1998年11月24日付朝刊、埼玉地方面</ref>、年俸は2,600万円増の7,400万円(推定)となっている<ref>読売新聞、1998年12月1日付朝刊、P.25</ref>。
 
{{by|1999年}}は田中が遊撃手に戻り、自身は守備固めなどでの起用が増えた。{{by|2000年}}は田中や金子の故障をカバーする働きを見せ、チームの優勝争いを巧な守備などで支えた<ref>読売新聞、2000年9月24日付朝刊、P.16</ref>。オフには[[フリーエージェント_(日本プロ野球)|FA]]の権利を行使し、複数年契約で残留している<ref>毎日新聞、2000年11月9日付朝刊、P.23</ref>。
 
{{by|2002年}}には監督の[[大島康徳]]から指名され、主将に就任した<ref name="base_20021021_58"/>。同年は遊撃手のレギュラーとして期待され<ref>読売新聞、2002年2月23日付朝刊、P.18</ref>、オープン戦では打率.412の好成績を残している<ref name="base_20021021_57"/>。しかし、シーズンに入るとストライクゾーンの拡大によって待球が難しくなった事もあり、打撃不振に陥った<ref name="base_20021021_57"/>。また、[[札幌市]]への本拠地移転計画の発表や[[日本ハム]]本社の[[牛肉偽装事件]]などがあってチームの動揺を防ぐのに苦労したほか、4月には父が亡くなっている<ref name="base_20021021_56"/>。オフには400万円減の年俸6,800万円(推定)で契約を更改した<ref>毎日新聞、2002年12月5日付朝刊、P.19</ref>。[[木元邦之]]の成長などもあって出場機会は徐々に減り、{{by|2005年}}オフには翌年の年俸半減もしくは自由契約とすることを通告されている<ref>朝日新聞、2005年9月30日付朝刊、P.21</ref>。
 
{{by|2006年}}6月20日に、金銭トレードにより[[中日ドラゴンズ]]に移籍<ref>朝日新聞、2006年6月21日付朝刊、P.23</ref>。9月19日の対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]戦では、ライトスタンドに飛んだ打球が観客に捕られ、裁定によって二塁打となっている<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110919001635660.html スポニチ 日めくりプロ野球 【9月19日】2006年 移籍1号本塁打、と思いきや…奈良原浩 幻の大飛球]</ref>なお中日移籍後の初打点は、リーグ優勝が決定した10月10日の対[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦で延長12回表に放った[[適時打]]であった。[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第1、2戦で代走として起用されている<ref>[http://bis.npb.or.jp/scores/nipponseries/linescore2006.html 日本野球機構 2006年度日本シリーズ 試合結果]</ref>。同年限りで現役を引退し、二軍内野守備走塁コーチに就任した<ref>朝日新聞、2006年10月31日付朝刊、P.18</ref>。
 
=== 現役引退後 ===
[[file:CD-Hiroshi-Narahara.jpg|leftright|thumb|中日コーチ時代(2008年6月25日、阪神鳴尾浜球場)]]
一塁コーチャーを務めたのち、{{by|2011年}}より二軍野手コーチとなった。同年をもって[[落合博満]]が監督を辞任すると、10月6日付でヘッドの[[森繁和]]ら他の8人のコーチとともに退団が発表された<ref>朝日新聞、2011年10月23日付朝刊、P.23</ref>。{{by|2012年}}より、埼玉西武ライオンズの一軍守備走塁コーチに就任した<ref>朝日新聞、2011年11月11日付朝刊、P.23</ref>。
 
== プレースタイル ==
[[辻発彦]]と組んだ二遊間の守備は日本一とも言われ<ref name="gendai_199403_120">「西武・辻発彦と奈良原浩の内野手論 『見えないファイン・プレー』の美学」『現代』、1994年3月号、P.120</ref>、
[[オレステス・デストラーデ]]からは「[[オジー・スミス]]とまでは言わないが、[[メジャーリーグベースボール|MLB]]で十分に通用する守備能力が奈良原にはある」と評価されている<ref>「NOMOを語る オレステス・デストラーデ『バッティングのことなら教えるよ』。」『Sports Graphic Number』、1995年8月20日号、P.32</ref>。プロに入った頃から守備に自信はあったが、西武で辻や[[石毛宏典]]と一緒に練習したことにより、雑な部分が消えて上達した<ref name="Number_19930120_48"/>。特に、辻からは練習に対する真摯な姿勢やプレーについてメモを取る事など多くを学んだという<ref name="Number_19930120_48"/>。守備では特に打球へのスタートを重視しており、[[捕手]]のサインや打者のクセから常に打球の方向を予想していた<ref name="Number_19930120_48"/>。
 
西武では細かいプレーができる選手として存在感が大きく、同じパ・リーグの日本ハムに移籍した際には西武がフォーメーションのサインを全て変更している<ref name="Number_19930120_48"/>。トレードにより出場機会が増えるため奈良原にとってメリットもあるだろう、という判断もあったと[[東尾修]]は語っており、奈良原も西武を恨む気持ちはなかったという<ref name="Number_19930120_48"/>。日本ハムで主将に就任した際には、野球に対する情熱や知識、精神的な強さを高く評価されている<ref name="base_20021021_58"/>。
 
== 詳細情報 ==
* '''82''' (2007年 - 2011年)
* '''74''' (2012年 - )
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[北海道日本ハムファイターズの選手一覧]]
* [[中日ドラゴンズの選手一覧]]
 
* [[河原井正雄]] - [[青山学院大学硬式野球部]]監督
== 外部リンク ==
*[http://bis.npb.or.jp/players/81983883.html NPB 個人年度別成績 奈良原浩]
 
{{埼玉西武ライオンズ}}
6,692

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