「ヨシップ・ブロズ・チトー」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
チトーは、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の一部であった、今の[[クロアチア]]の北西部、[[ザゴリェ]]地方([[:en:Hrvatsko Zagorje|Hrvatsko Zagorje]])の[[クムロヴェツ]]で生まれた。父親のフラニョは[[クロアチア]]人で、母親のマリヤは[[スロベニア]]人で、彼らの7番目の子供であった。少年時代を、ポドスレダにいる母方の曽祖父の所で過ごしたのち、クムロヴェツの[[小学校]]に入学し、[[1905年]]に卒業している。
 
[[1907年]]、のどかな田舎から一転して、[[シサク]]の錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは[[労働運動]]に関心をもつようになり、初めて[[メーデー]](5月1日、労働者の日)を祝った。[[1910年]]、[[冶金]]工の組合に加入すると同時に、クロアチアと[[スラヴォニア]]の社会民主党にも加わっている。[[1911年]]から[[1913年]]にかけて、オーストリア=ハンガリー帝国内を転々としながら働く。
=== 従軍~ロシア革命との出会い ===
 
[[1913年]]の秋から、徴兵により兵役に就いており、[[1914年]]5月には、軍の主催する[[ブダペスト]]の[[フェンシング]]大会で準優勝し、銀メダルをもらっている。[[第一次世界大戦]]の勃発により、[[ヴォイヴォディナ]]にある[[ルマ]](現在は[[セルビア]]領)に送られた。チトーは、そこで反戦争的な宣伝を流布したことで逮捕され、[[ペトロヴァラディン]]要塞に収監された。[[1915年]]、再び[[ロシア帝国|ロシア]]を攻撃するために、中央ヨーロッパの[[ガリシア_(中欧)|ガリシア]]地方に送られた。[[ブコヴィナ]]では[[榴弾]]砲により重傷を負った。同年4月には、部隊全員がロシアの[[捕虜]]となった。
 
病院で数ヶ月療養したのち、[[1916年]]の秋、[[ウラル山脈]]にある労働収容所に送られた。[[1917年]]4月、チトーは戦争捕虜たちの[[デモ]]を組織したとして逮捕された。後に脱走して、[[1917年]]の[[7月16日]]から[[7月17日|17日]]にかけて起きた[[サンクトペテルブルク]]のデモ([[七月蜂起]])に参加している。警察から逃れるため、[[フィンランド]]まで逃げたが、結局捕まり、[[ペトロパブロフスク]]の要塞に3週間閉じ込められた。クングールの労働収容所に入れられたのち、列車に乗った際に逃亡した。[[1917年]]11月、[[シベリア]]の[[オムスク]]で[[赤軍]]に参加した。[[1918年]]春には、[[ボリシェヴィキ|ロシア共産党]]へ参加した。
=== 党活動~第二次世界大戦 ===
{{See also|ユーゴスラビア人民解放戦争}}
[[1920年]]に帰国して[[ユーゴスラビア共産党]]に参加。[[1928年]]に逮捕され、5年間投獄された。[[1934年]]以降[[コミンテルン]]で働き、[[1936年]]発生した[[スペイン内戦]]では、[[国際旅団]]の「[[ゲオルギ・ディミトロフ|ディミトロフ]]」大隊の指揮官の一人として従軍した。彼の最初の妻はヘルタ・ハースで、第1子が[[1941年]]の5月に生まれている。
 
[[ファイル:Tito and Ivan Ribar in 1943.jpg|thumb|第二次世界大戦中のチトー(右)]]
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]]12月、[[ナチス・ドイツ]]によるユーゴスラビア占領下で、抵抗運動の指導者となったチトーは、[[民主主義|民主]]的な臨時政府の設立を宣言した。この間、彼の活動は[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]によって直接的に支援されており、[[1944年]]6月には、彼の[[パルチザン (ユーゴスラビア)|パルチザン]]を支援するために、[[バルカン半島]]で活動する[[イギリス]]空軍部隊が編成されている。しかし、彼が[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]に接近しようとすることに対して、司令部にいるイギリスや[[アメリカ合衆国軍|アメリカ軍]]の[[将校]]とたびたび険悪になった。戦争が終結すると、これらの軍隊は撤収した。
 
=== 第二次世界大戦後 ===
戦後も最初の内は[[スターリン主義]]に基づきユーゴスラビアは歩んでいったのだが、あまりにも改革が徹底していた為周りの東欧諸国に影響力を持つようになる。更にモスクワからの自立を意図し、それを恐れたスターリンは[[1948年]]に[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]を[[コミンフォルム]]から除名する。翌年には[[ソビエト連邦|ソ連]]との友好相互援助条約も破棄された。その後、ソ連から彼を狙う暗殺団が度々送り込まれるがチトーは秘密警察に暗殺団を全て検挙させた。逆にモスクワのスターリン宛に電報を送り「刺客を送る用意がある」と揺さぶり、ソ連の支配下に置くことを諦めさせた。