「マッタ・アヴ・スヴェーリエ」の版間の差分

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1929年3月に、従弟にあたるノルウェー王太子オーラヴと結婚。結婚後は、子供たちのために服を自身で縫うなどの姿が国民の共感を得、人気も高かった。1939年にはアメリカを訪問し、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[フランクリン・ルーズベルト]]と夫人[[エレノア・ルーズベルト|エレノア]]と交友関係を結んだ。
 
1940年、[[ドイツ]]軍がノルウェーに侵攻すると、マッタは子供たちを連れて故国スウェーデンへ亡命した。義父[[ホーコン7世 (ノルウェー王)|ホーコン7世]]と王太子オーラヴは抗戦するが敗退し[[イギリス]]へ逃れ、そこで亡命政府を樹立した。マッタは子供たちを連れて故国スウェーデンへ亡命した。マッタ母子を受け入れることでドイツの侵攻を受けると恐れる中立国スウェーデンでは歓迎されたとは言えず、またドイツ軍と傀儡政府が義父らのを剥奪しわずか3歳の長男ハーラル(のちの[[ハーラル5世 (ノルウェー王)|ハーラル5世]])をノルウェー王にしようとしていることを知った。更にスウェーデンに多数存在していた親独派らも息子を引き渡すように圧力をかけてきたことに身の危険を感じたマッタは、アメリカ大統領夫妻の招きに応じて、[[フィンランド]]からアメリカ海軍の軍艦で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ向かった。マッタと子供たちは[[ワシントンD.C.]]に住んだ。彼女は[[赤十字]]の活動に加わり、ノルウェーの窮状を訴えて連合国の援助を求めた。
 
大戦後、帰国したマッタを国民は国母として熱狂的に迎えた。1954年、癌のため53歳で死去。