「斯波義銀」の版間の差分

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[[本能寺の変]]の後は、弟の津川義冬が信長の子の[[織田信雄]]の家老となっていたため、その下に義近もいたようで、義冬が信雄に殺害された後、[[小牧・長久手の戦い]]においてはその居城であった[[松ヶ島城]]を守ったが、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に降伏しその臣下となる。
 
秀吉政権の下では足利義昭や[[山名豊国]]とともに[[御伽衆]]となり、当初は外交面で活躍し、東北に分家が点在する斯波家([[大崎氏]]・[[最上氏]]など)の当主として[[伊達政宗]]など東国大名との折衝にあたった。しかし[[小田原征伐]]で降った[[後北条氏]]の[[北条氏直]]の赦免を秀吉に嘆願した行為が増長であるとして秀吉の怒りを買い、失脚した。のちに赦免されたものの、その後は政治的な影響力を回復することはなかった。天正17年([[1589年]])3月には[[聚楽第]]で発生した落書き事件に[[細川信良]]・[[尾藤知]]と共に巻き込まれて一時捕縛されることとなった。
慶長5年([[1600年]])死去。[[戒名|法名]]は衛陽院殿龐山蘊公大居士。[[万治]]元年([[1658年]])当時は[[妙心寺]]大嶺院に[[位牌]]及び臂鷹([[鷹狩]])の画像があったという。