「ジョン・ニール」の版間の差分

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生麦事件発生直後、横浜居留の外国人たちは、横浜に停泊中の英・仏・蘭の軍艦から陸戦隊を出し、[[保土ヶ谷]]に宿泊している[[島津久光]]一行を襲撃する計画を立てたが、ニールはこれを認めなかった。フランス公使[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール|ド・ベルクール]]も、事件当日横浜に到着したばかりの[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]提督もニールに同意したため、襲撃計画は中止された。
 
[[12月4日]](文久2年10月13日)、ニールは[[江戸城]]に登城し、第二次東禅寺事件の賠償交渉を開始した(生麦事件に関する本国からの訓令はまだ届いていなかった)。第二次東禅寺事件に関しては、本国の[[初代ラッセル伯ジョン・ラッセル|ラッセル]]外相からの支持に基づき、1万ポンド(4万[[メキシコドル]]、3万1100両)の賠償金を要求した。幕府はこれに対する即答は避けた。ニールはその後10日間江戸に滞在したが、幕府からの返答を得られなかったため、横浜に戻った。その1週間後に、幕府は3000ドルなら支払うと回答したが、両者の差は大きく合意にはいたらなかった。
 
[[1863年]][[1月28日]](文久2年12月9日)、[[外国奉行]][[竹本正雅]]がニールを訪れ、[[御殿山 (東京都品川区)|御殿山]]に建設中の新公使館の使用中止(この3日後に[[英国公使館焼き討ち事件|焼き討ち]]にあった)を依頼するとともに、将軍が天皇の説得に失敗した場合には内乱となる可能性があること、その場合には英国は幕府を援助してくれるかを尋ねた。ニールは幕府への精神的支援として可能な限りの艦隊を横浜に集結させると回答し、実際にキューパーにこれを依頼した。
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ところが、将軍[[徳川家茂]]以下主要な幕閣は[[京都]]に出向いており、江戸の留守政府はこのような重大な決定を下せず、[[4月24日]](3月7日)さらに30日の猶予を求めてきた。ニールは15日の猶予を認めたが、[[5月2日]](3月15日)、幕府がさらに15日間の猶予を求めてきたため、ニールは信頼できる高官の派遣を要請した。早速外国奉行竹本正雅と[[竹本正明]]が横浜に派遣され[[5月4日]]・5日の両日、ニール、ド・ベルクール、キューパー、フランスの[[バンジャマン・ジョレス|ジョレス]]提督が加わった会議が開かれた。フランスが加わったのは、これが幕府と英国の関係にとどまらず、条約締結国との問題であるとの理屈であった。ニールとド・ベルクールははここで、幕府が賠償金を支払い、かつ[[安政五カ国条約|条約]]順守の姿勢を見せた場合、英仏両国は幕府を軍事的に援助すると申し出た。これに対し竹本正雅は、幕府は賠償金の金額には合意するが、その支払い方法に関して意見があると述べた。結局、京都の将軍の合意を取り付けるためとの理由で、[[5月23日]](4月6日)が最終期限とされた。
 
期限から2日遅れた5月25日(4月8日)、竹本は横浜に戻り、軍事援助の申し出を断ると同時に、一両日中に賠償金の支払い方法を決定することに合意した。ところが竹本は「病気」になってしまい、代わりに6月7日(4月21日)になって外国奉行[[菊池隆吉]]がニールを訪れ、支払い方法の交渉に入った。翌日、賠償金総額44万ドル(11万ポンド)のうち、14万ドルを10日以内に支払い、残り30万ドルは5万ドルずつ毎週支払うことで合意した。しかし、ニールはこの時点でも実際に賠償金が支払われるか、軍事行動を取る必要があるかは五分五分と見ていた。
 
その後[[6月14日]](4月28日)に、[[6月18日]](5月3日)を第一回目の支払日とするとことが文書で確認された。ところが少し遡る[[6月6日]](4月20日)、京都の[[徳川家茂]]は[[6月25日]](5月10日)をもって攘夷を実行すると[[孝明天皇]]に約束させられていたのである。このため、支払い当日の朝になって、幕府は賠償金支払い中止し、[[老中]][[小笠原長行]]が[[6月20日]](5月5日)に出向く旨を伝えてきた。当然のことながら、ニールは激怒し、12時間の猶予は与えたものの、全額一括払いを条件として付け加えた。解決を目前にして事態は急展開し、結局6月20日、ニールは幕府に対する軍事行動をキューパー提督に委ねた。