「イタリア領東アフリカ」の版間の差分

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エチオピア地方はヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路である[[紅海]]の南部に面しているため、インド、アジア貿易に関する重要拠点となる土地であった。[[1880年代]]に始まった[[アフリカ分割]]において[[イギリス]]が植民地化を進めた。[[フランス]]は[[アフリカ大陸]]を南北に伸びるイギリス植民地の分断と内陸部の[[石炭]]に興味を示していた。[[イタリア]]は植民地獲得に出遅れており、北アフリカの空白地帯への進出・獲得に乗り出していた。
 
イタリアは[[1870年代]]に紅海南部に面したエリトリアを民間会社を通じて買収し、事実上の植民地化を行った。後に[[ヨハンネス4世 (エチオピア皇帝)|ヨハンネス4世]]と対立したイタリアはヨハンネス4世が後継に指名したヨハンネスの義妹の子[[マンガッシャ]]と対立したショアの王[[メネリク2世]]を支援し、内戦に勝利したメネリクの即位後[[1889年]]に{{仮リンク|ウッチャリ条約]]|en|Treaty of Wuchale}}を結び、翌年正式に植民地化した。エリトリアはエチオピアの北に接する地域である。[[1889年]]にはエチオピアの南東に接するイタリア領ソマリランド(現ソマリア南部)を獲得した。
 
エチオピアの北と南東を獲得後、南([[ケニア]])、西([[スーダン]])、東([[イギリス領ソマリランド]]、現ソマリア北部)を植民地化していたイギリスの支援を受け、[[1896年]]に、エチオピアの保護領化を開始する。ところが、紅海の出口である[[ジブチ]]を獲得し、エチオピアの首都アディスアベバとの鉄道も敷設していたフランスがエチオピアを支援したこともあり、[[1896年]][[3月1日]]エリトリア国境にほど近い[[アドワの戦い]]で大敗を喫する。これを[[第一次エチオピア戦争]]という。このとき軍事的に勝利したため、エチオピアは[[リベリア]]と並んで[[アフリカ大陸]]の数少ない[[独立国]]として残った。