「ドランド・ピエトリ」の版間の差分

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ヨモギ (会話 | 投稿記録)
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=== 世界的有名人 ===
ピエトリの頑張りはスタジアムにいた観客を感動させた。メダルを失った代償として、[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレキサンドラ王妃]]は彼に銀のカップを授与することとし、大会の医師として協力していた作家の[[アーサー・コナン・ドイル]]は授与式を提案した。さらにドイルは金のシガレットケースをピエトリに贈っている。一説によれば、ドイルはゴール地点でメガホンをもって応援していたという。
 
かくてピエトリは世界的な有名人となった。作曲家の[[アービング・バーリン]]からは「ドランド」という歌をプレゼントされ、また、アメリカで行われるエキシビションレースに参加するよう求められた。1908年11月に[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で、ヘイズとピエトリが対決するレースがセットされた。このレースではトラックを回って42.195キロを目指す大変なものだったがそれでもなおピエトリが勝ち、結果的にはピエトリの勝利を決定付けた。その後また同じようなレースが翌年の3月にも行われている。ピエトリは、アメリカでの興行で行われた22レース中17回で勝利した。
 
ピエトリは、[[1909年]]5月にイタリアに戻り、プロのランナーとして活動した。そしてさらに2年間外国で活動した。彼の最後のマラソンは、[[1910年]]5月に[[ブエノスアイレス]]で行われたレースで、ここで2時間38分48秒2の自己ベストを達成している。なお、彼は現役生活中に合計17回マラソンに出場し、優勝8回、2位1回、6位1回、棄権6回、失格1回の成績を残した。