「フランシス・ホジソン・バーネット」の版間の差分

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フランシス・イライザ・ホジソンは[[イギリス]]の[[マンチェスター]]に生まれたが、幼い頃に父を亡くし、[[1865年]]、16歳で一家と共に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[テネシー州]][[ノックスヴィル]]へと移住した。[[1868年]]、女性向け月刊雑誌『ゴーディズ・レディース・ブック』(''[[:en:Godey's Lady's Book|Godey's Lady's Book]]'')に物語を発表する。[[1873年]]に医者のスワン・バーネット(Swan Burnett)と[[ワシントンD.C.]]で結婚する。
 
[[1886年]]には『[[小公子]]』(''Little Lord Fauntleroy'')を雑誌『セント・ニコラス』に発表する。児童向けとして書かれた本だったが、母親達に大いに人気を博し、バーネットの次男ヴィヴィアンの髪型を元にした主人公のロングカールの髪型と[[オスカー・ワイルド]]の正装を元にした[[レース (手芸)|レース]]の襟がついた[[ベルベット]]のスーツ、通称フォントルロイ・スーツが大流行した。この本は、50万部を売り上げた。
 
[[1888年]]『セーラ・クルー』(''Sara Crewe'')を発表、この作品は[[1905年]]に『[[小公女]]』(''A Little Princess'')と改題されて書き直された。
 
[[1890年代]]半ばからは主に[[イングランド]]に居住したが、[[1905年]]にアメリカ合衆国の[[市民権]]を取得し、[[1909年]]に米国に戻った。同年『[[秘密の花園]]』(''The Secret Garden'')を発表するが、生前のうちは反響は大きくなかった。[[1915年]]に『[[消えた王子]]』を発表
 
[[ニューヨーク州]][[プランドーム (ニューヨーク州)|プランドーム]]([[:en:Plandome, New York|Plandome]])で余生を送り、同地にて死去した。