「河野安通志」の版間の差分

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[[1945年]](昭和20年)日本が敗戦すると、河野は旧大和軍の選手たちに呼びかけ、12月のある日、[[東京カッブス]]として[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]会長の[[鈴木龍二]]に加盟を申請。しかし、ここでも東京巨人軍の市岡代表が「(河野は)自ら進んで大和軍を解散したのだから」と猛反発した。このため鈴木は正式な加盟審査に掛けることなく、申請を握りつぶした。鈴木は著書『プロ野球と共に五十年(上)』で「否決されてしまった」と審査に掛けたかのように書いているが、実際には他球団のオーナーは申請の存在を知らされておらず、巨人の意向がそのまま通った形になった。鈴木は河野に同情的であったが、巨人の意向を絶対視していたものと思われる。<br/>河野はまもなく死去したため、正式な却下の報せを受けていたかもわからないという(記録上は、河野の死の直後である[[1946年]](昭和21年)[[1月22日]]の緊急理事会で却下)。
 
1946年(昭和21年)1月21日、脳出血のため急死。61歳。死後、野球に関する蔵書は鈴木龍二に買い取られ、野球体育博物館(現・公益財団法人[[野球殿堂博物館]])図書室の元となった。現在同館に所蔵されている資料のうち、太平洋戦争以前のものに関しては、その半分が河野の蔵書だといわれている<ref>横田順彌『嗚呼!! 明治の日本野球』平凡社、2006年、20頁。なお、残りの半分は、在野の野球研究家・石川啄木研究家である斎藤三郎の蔵書だという。</ref>。
 
[[1960年]](昭和35年)、特別表彰で[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入りを果たした。