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{{ラトビアの歴史}}
 
現在の[[ラトビア]]から[[エストニア]]にかけて位置する[[リヴォニア]]では、キリスト教徒と現地の異教徒との軋轢は日に日に高まり小競り合いも頻発していた。そんな中、[[1199年]]にリヴォニア司教区の司教に任命された[[シトー会]]のアルベルトは、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]に[[東方十字軍]]の許可を願い出る。アルベルトは十字軍兵士を集め、[[1200年]]3月に[[リガ]]に移動し、[[十字軍]]の力によりその周辺の異教徒[[リーヴ人]]を服属させる。さらに翌年[[1201年]]アルベルトは自分のリヴォニア司教座の位置を以前のエクスキュルからリガに移転させる。これらを下準備としてアルベルトは[[1202年]]にリヴォニア帯剣騎士団を設立する。当初のメンバーはリガまで連れてきた十字軍兵士から勧誘された。彼らの活動によりリヴォニアはあらかた征服され、エストニアも一進一退の攻防の末半ばほど征服に成功した
 
アルベルトはリーヴ人を使役してリガを増築し、[[1201年]]に自分のリヴォニア司教座の位置を以前のエクスキュルからリガに移転させる<ref>山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、113頁</ref>。翌[[1202年]]にアルベルトはリガ城を本拠地とするリヴォニア帯剣騎士団を設立した<ref>志摩『物語バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』、31-32頁</ref><ref name="yamauchi114">山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、114頁</ref>。当初の騎士団のメンバーはリガまで連れてきた十字軍兵士から勧誘され、入団した人間は永続的にリガに留まり防備に従事した<ref name="yamauchi114"/>。
しかし、征服した異教徒への過酷な搾取や、過度に残忍な戦いぶりや非道さはローマでも問題になるほどであり、あげくそれを掣肘しようとした教皇特使にも狼藉を加える。悪評と孤立を深めるリヴォニア帯剣騎士団はやがて、1236年[[リトアニア]]の[[シャウレイ]]にてリトアニア軍に惨敗を喫し、翌年1237年には[[ドイツ騎士団]]に吸収合併され、[[リヴォニア騎士団]]として自治的な分団の地位に置かれた。
 
彼らの活動によりリヴォニアはあらかた征服され、エストニアの支配権を巡って[[スウェーデン]]と争った。[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]][[ヴァルデマー2世 (デンマーク王)|ヴァルデマー2世]]の支援を受けた騎士団は[[バルト海]]に浮かぶエストニア人が居住する島々と北部エストニアを占領し、1230年にデンマークが領有していたレヴァル([[タリン]])を占領した<ref>志摩『物語バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』、32頁</ref>。
 
騎士団は[[教皇|ローマ教皇]]から正式な認可を受けて征服活動は正当化され、エストニア土着の部族は騎士団の征服に激しく抵抗した<ref>志摩『物語バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』、32-33頁</ref>。また、征服地の領有を巡って騎士団とアルベルトが対立し、インノケンティウス3世からの仲介を受けた<ref>山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、143-144頁</ref>。しかし、征服した異教徒への過酷な搾取や、過度に残忍な戦いぶりや非道さは[[カトリック教会|ローマ教会]]でも問題になるほどであり、あげくそれを掣肘しようとした教皇特使にも狼藉を加えた<ref>山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、144-145頁</ref>。
 
1236年に[[リトアニア]]のザウレ([[シャウレイ]])にて[[リトアニア大公国|リトアニア]]軍に惨敗を喫し、翌年[[1237年]]には[[ドイツ騎士団]]に吸収合併され、[[リヴォニア騎士団]]として自治的な分団の地位に置かれた<ref>山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、145-147頁</ref><ref>志摩『物語バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』、33-34頁</ref>。
 
==組織==
この騎士団の目的は、[[バルト三国]]周辺の異教徒達を服属させカトリックに改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することである<ref>山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、115,142頁</ref>。これはの点で、聖地[[イェルサレム]]の守護・奪回や巡礼者の保護を目的としている他の騎士修道会とは本質的に異なっていた<ref name="yamauchi115">山内『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』、115頁</ref>

団員は白いマントを身に纏い、教皇インノケンティウス3世より賜った赤い剣と小さな十字の紋章を左肩につけていた。この剣の紋章が、この騎士団の呼称につけられる「帯剣」あるいは「刀剣」の語の由来である<ref name="yamauchi115"/>

基本的な規則と内部構造は[[テンプル騎士団]]と同じく、騎士、聖職者、一般兵・職人であっ3階層に分かれてい。しかし、他の騎士修道会とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位にリガ司教が君臨していた<ref name="yamauchi115"/>
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 志摩園子『物語バルト三国の歴史 エストニア・ラトヴィア・リトアニア』(中公新書, 中央公論新社, 2004年7月)
* 山内進 『北の十字軍- 「ヨーロッパ」の北方拡大』 講談社〈講談社選書メチエ〉、, 講談社, 1997年、第三章。9月)
 
== 関連項目 ==