「柳瀬正夢」の版間の差分

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折しも[[1918年米騒動|米騒動]]や[[ロシア革命]]に刺激を受け、[[大正デモクラシー]]が高まりを見せた頃で、文芸界でも民衆芸術論が盛んに議論された。柳瀬もそのような芸術運動に傾倒してゆき、[[普門暁]]の[[未来派]]美術協会に入ったり、[[村山知義]]、[[尾形亀之助]]、[[大浦周蔵]]、[[門脇晋郎]]とともに[[MAVO]]を結成したりして、[[前衛美術]]に進んだ。1924年には、三科造形美術協会を結成している。
 
一方でプロレタリア美術にも傾倒し、[[1921年]]に[[種蒔く人]]、[[大正期新興美術運動|未来派美術協会]]に参加。[[1923年]]に[[日本漫画会]]発起人となる。そして[[1925年]]、[[日本プロレタリア芸術同盟|日本プロレタリア文芸同盟]]の結成に参加、同年創刊の[[無産者新聞]]に参加し、多くの挿絵を執筆した。
 
[[1931年]]10月、[[日本共産党]]入党。しかし翌[[1932年]]に[[治安維持法]]違反で検挙され、拷問を受ける。こうした逆境にもめげずに、プロレタリア美術への運動を続け、無産階級の画家として知られた[[ジョージ・グロス|ゲオルグ・グロッス]]を日本に紹介した。他にも[[カリカチュア]]、絵画に始まり、デザイン(ポスター)、コラージュ、舞台美術など、戦前~戦中にかけて幅広く活躍した。