「藤原乙縄」の版間の差分
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[[天平勝宝]]9年([[757年]])に発生した[[橘奈良麻呂の乱]]に際して、普段から[[橘奈良麻呂]]と親しかったことを理由に<ref>『[[続日本紀]]』天平神護元年11月27日条</ref>、乱に与したとして[[日向国|日向]][[掾|員外掾]]に[[左遷]]される(この時の[[位階]]は[[正六位|正六位上]])。また、父・[[藤原豊成|豊成]]も[[右大臣]]を免職されて[[大宰権帥|大宰員外帥]]に左遷されている。
[[天平宝字]]8年([[764年]])[[藤原仲麻呂の乱]]終結後の10月に復帰して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。こののち、[[孝謙
神護景雲4年([[770年]])称徳天皇[[崩御]]後まもなく、一挙に三階昇進し[[従四位|従四位下]]に叙せられるが、同年[[土佐国|土佐]][[国司|守]]次いで[[美作国|美作]]守と地方官に転じる。のち[[弾正台|弾正尹]]に[[下総国|下総]]守次いで美作守を兼ね、[[宝亀]]9年([[778年]])従四位上、宝亀10年([[779年]])[[参議]]兼刑部卿と昇進するが、[[桓武天皇]]の[[即位]]後間もない、[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])6月6日死去。最終官位は参議従四位上守刑部卿。
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