「河野氏」の版間の差分

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その後、通直は大名としての道を絶たれ、安芸竹原に仮寓を与えられた。そして[[1587年]]、通直が嗣子無くして没したため、河野氏は完全に滅亡した。
 
== 河野氏遺臣の再興のための戦い ==
河野通直の死後直系の子孫はたたれたが、遺臣たちは再興をかけて戦いを挑んだ。終焉の地となった竹原には、遺臣たちが再興を誓い合った[[誓いの泉]]がある。朝鮮出兵において、秀吉が名護屋に移動する最中、秀吉暗殺を計る[[芳流閣吊り天井事件]]を試みたが、失敗し、予州勢残党は徹底的に弾圧され、朝鮮の役においても非常に苦しい戦場に配置された。1600年には関が原の戦いに呼応して、安芸の毛利、村上勢と、四国に残留した平岡勢が協同して、加藤嘉明の居城 伊予松前城に攻めるが、守将佃十成の計略にはまり、完全に撃破されてしまった。
 
 
== 戦国時代の伊予の内情 ==
 河野氏は[[守護大名]]、そして[[戦国大名]]として[[伊予国]]のトップとして長きに渡り君臨してきたが、度重なる内紛により戦国時代になると土豪たちとの強力な主従関係は無いに等しい状態となり、表面的には[[国人]]を傘下に収めつつも事実上[[国人]]の連合国家的性質の国となっていた。[[伊予国]]は他国に比べ領主が分立しておりそれぞれ独立した領地経営をしていたため結果として国として強力な結束力を持つに至らなかった。