「烏森神社」の版間の差分

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社伝によれば、[[天慶]]3年([[940年]])、[[平将門]]が乱を起こした時、鎮守府将軍[[藤原秀郷]](俵藤太)が[[武蔵国]]のある[[稲荷神社]]に戦勝を祈願したところ、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してどこかに稲荷神社を創建しようと考えていた所、秀郷の夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げした。秀郷が現在地である桜田村の森に来た所、お告げの通り烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが当社の始まりであるという。
 
江戸時代の稲荷ブームの際には、初午の稲荷祭の賑わいは《江戸で一二を争うものであった》という(境内案内板における山田將夫宮司の説明、1971年)
新橋には他に[[日比谷神社]]があり、大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われる。
 
新橋には他に[[日比谷神社]]があり、大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われる。当神社の大神輿は1930年に名人・山本正太郎(通称だし鉄)によって作られた巨大なもの。「だし鉄の最高傑作とも言われている」と境内案内チラシにある。
 
境内に木遣塚あり。また「心願色みくじ」なるものが頒布されている。
 
== 文化財 ==
*足利成氏文書([[1984年]][[10月15日]]港区指定文化財)
[[享徳]]4年([[1455年]])1[[鎌倉公方]][[足利成氏]]が書いた神願書。翻刻すると《稲荷大明神神願書事 今度発向所願悉有成就者当社可遂修造願書之状 如件 享徳四年正月五日 左兵衛督源朝臣成氏》となる。
 
== 出典 ==