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== 経歴 ==
[[王雄 (西魏・北周)|王雄]]の子として生まれた。父の功績により、驃騎大将軍・開府儀同三司に累進した。北周の[[孝閔帝]]が即位すると、右小武伯となった。[[562年]]、武威郡公に封ぜられた。[[564年]]、父の王雄が晋公[[宇文護]]の東征に従って戦死したため、王謙は柱国大将軍に任ぜられ、庸国公の爵位を嗣いだ。[[576年]]、[[皇太子]][[宣帝 (北周)|宇文贇]]の下で[[吐谷渾]]を討ち、功績を挙げた。また[[武帝 (北周)|武帝]]の東征に従って奮戦し、上柱国に進んだ。[[577年]]、益州総管・十八州諸軍事となった。
 
[[580年]]、[[楊堅]]が北周の[[丞相]]となると、王謙は司録の賀若昂に入朝させた。賀若昂が帰還して、[[長安]]の情勢を報告すると、王謙は楊堅の簒奪を阻止するために挙兵した。所管する益・潼・新・始・龍・邛・青・瀘・戎・寧・汶・陵・遂・合・楚・資・眉・普の18州と嘉・渝・臨・渠・蓬・隆・通・興・武・庸の10州の人の多くは王謙に従った。総管長史の乙弗虔や益州刺史の達奚惎は険阻な土地をたのみに情勢の変化を見るよう王謙に勧めた。隆州刺史の[[高阿那肱]]は王謙に信書を送って三策を述べ、直接に[[散関]]に出て[[関中]]を突くのを上策とし、[[梁州]]・[[漢中]]に出兵するのを中策とし、剣南を守るのを下策とした。王謙はその中下の策を用いた。