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'''藤原 妍子'''(ふじわら の けんし/きよこ、[[正暦]]5年3月([[994年]]4月) - [[万寿]]4年[[9月14日 (旧暦)|9月14日]]([[1027年]][[10月16日]]))は、[[摂政]][[藤原道長]]の次女。母は[[源倫子]]。第67代[[三条天皇]][[中宮]]。別名'''枇杷殿皇太后'''。子女は[[禎子内親王]]([[後朱雀天皇]][[皇后]])。同母の兄弟に[[藤原頼通|頼通]]・[[藤原教通|教通]]、[[藤原彰子|上東門院彰子]]・[[藤原威子|威子]]・[[藤原嬉子|嬉子]]。
 
== 生涯 ==
[[寛弘]]元年(1004年)11月[[正四位]]下、[[尚侍]]に任官。同年12月[[従三位]]。同7年(1010年)1月[[従二位]]、2月[[皇太子]]居貞親王(のちの三条天皇)に入内。同8年(1011年)、居貞親王三条天皇が即位し[[女御]]宣下を受ける。同9年(1012年)、中宮に冊立。[[長和]]5年(1016年)三条天皇退位、[[寛仁]]元年(1017年)三条天皇崩御。同二年(1018年)、[[皇太后]]。万寿4年9月14日(1027年10月16日)出家、同日崩御。享年34。
 
妍子が東宮妃として入内した時、先帝姉の[[一条天皇]]はまだ存命であったが、姉中宮・彰子所生のには、敦成親王([[後一条天皇]])が次のと敦良親王([[後朱雀天太子に確定し]])が生まれいた。おり、順調にいけば道長がいずれ天皇の外祖父・摂政となることは疑いないものの可能性が濃厚であった。しかし、その前にこれまで結びつきの弱かった三条天皇の即位を迎える東宮・居貞親王あたって、道長は[[後宮]]制覇第二の布石として妍子を三条天皇の下に送り込んだ入内させたのである。天皇居貞親王には東宮時代からの妃[[藤原せい子|娍子]]([[藤原済時]]女)との間に既に四男があったから、妍子の使命も姉彰子同様に男子を産むことであったのは言うまでもない。もちろん翌年一条天皇の崩御により三条天皇が即位すると、その翌年2月妍子も早々と中宮に冊立され、4月娍子は皇后に冊立された。
 
しかし長和2年(1013年)、妍子が出産したのは女子(禎子内親王、のちの陽明門院)であった。前年娍子の皇后冊立を巡ってぎくしゃくしていた道長と三条天皇の間は、妍子に皇子が誕生することで、道長と三条天皇の間の関係修復を期待されていたのだが、それも無に帰してしまい、道長はこの内親王誕生に大層不機嫌であったという(『[[小右記]]』) 結局その後も皇子は生まれず、三条天皇は道長の圧力に押し切られて譲位、ほどなく崩御した。妍子の皇子が帝位に就く可能性はこれでなくなり、また皇后娍子所生の[[敦明親王]]が三条天皇の没後皇太子を辞退してしまったこともあって、[[冷泉天皇]]系の男子の皇統は完全に将来を閉ざされることになった(ただし女系は妍子腹の禎子内親王を経て[[後三条天皇]]へと受け継がれた)
 
妍子は道長の娘達の中でも特に美しく、また妍子に仕える女房達の衣装が贅沢すぎることで兄頼通が叱責したとの逸話もあり、やや派手好きな性格であったらしい。しかし皇太后とはいえ、皇子の出産なく終わった彼女は、もはや表舞台に立つ存在ではなくなっていた。その後妍子は一人娘禎子内親王と共に三条天皇から伝領した枇杷殿に住み、万寿4年(1027年)3月に禎子内親王が東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)に入内するのを見届けて、その半年後に病で崩じた。華美を好むあまりに身内の眉をひそめさせることもあった妍子だが、亡くなる間際に身を清め、正式な受戒を済ませての潔い臨終であり、道長は末娘嬉子に続く次女の死に「老いた父母を置いてどこへ行かれるのか、私達も供をさせてくれ」と泣いて取り縋ったと伝えられる(『[[栄花物語]]』)
 
== 参考文献 ==