「ヴァーツラフ3世 (ボヘミア王)」の版間の差分

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[[ファイル:Wenzel3.jpg|thumb|200px|ヴァーツラフ3世]]
'''ヴァーツラフ3世'''(Václav III, [[1289年]][[10月6日]] [[プラハ]] - [[1306年]][[8月4日]] [[オロモウツ]])は、[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー国王一覧|王]](在位:[[1301年]] - [[1305年]])、後に[[ボヘミア王国|ボヘミア]][[ボヘミア君主一覧|王]](在位:1305年 - 1306年)、[[ポーランド王国|ポーランド]][[ポーランド国王|王]](在位:同)を兼ねた[[プシェミスル朝]]の最後の国王。ハンガリー王としての名は'''ヴェンツェル'''(Vencel)、ポーランド王としての名は'''ヴァツワフ3世'''(Wacław III)。ボヘミアとポーランドの王[[ヴァーツラフ2世]]の息子で、母は[[ハプスブルク家]]の[[ローマ王|ドイツ王]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]の娘[[グタ・ハブスブルスカー|ユッタ]]。
 
1301年、ハンガリー最初の王家であった[[アールパード朝|アールパード家]]が断絶すると、父ヴァーツラフ2世の母方の祖母アンナが[[ベーラ4世]]の王女であったことから、父によってハンガリー王として送り込まれて即位することとなった。1305年に父が早世すると、ボヘミアとポーランドの王位を継承した。その際にハンガリー王位は放棄し、代わって[[バイエルン大公|下バイエルン公]][[オットー3世 (バイエルン公)|オットー3世]]が獲得した。
 
翌1306年のポーランド遠征に向かう途上、[[オロモウツ]]で暗殺され、16歳の若さだった。父の王位を継承した年に[[チェシン公国|チェシン公]][[ミェシュコ1世 (チェシン公)|ミェシュコ1世]]の娘[[ヴィオラ・エルジュビェタ・チェシンスカ|ヴィオラ・エルジュビェタ]]と結婚していたが子供はなく、ヴァーツラフ3世の死によってプシェミスル朝は断絶した。
 
その後、ポーランドでは[[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]が即位して[[ピャスト朝]]が再興した。ハンガリーでは[[1307年]]に[[カーロイ1世]]がオットー3世から王位を奪取し、[[ハンガリー・アンジュー朝|アンジュー朝]]を興した。ボヘミアでは、妹[[アンナ・プシェミスロヴナ|アンナ]]の夫[[ケルンテン公国|ケルンテン公]][[ハインリヒ6世 (ケルンテン公)|ハインリヒ6世]]と、父の後妻[[リクサ・エルジュビェタ]]と結婚した[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]][[ルドルフ1世 (ボヘミア王)|ルドルフ3世]](ヴァーツラフ3世の母方の従兄に当たる)が王位を争った後、アンナの妹[[エリシュカ・プシェミスロヴナ|エリシュカ]]と結婚した[[ルクセンブルク家]]の[[ヨハン・フォン・ルクセンブルク|ヨハン]]が王位についた。