「マリア・カロリーナ・ダズブルゴ」の版間の差分

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しかしフェルディナンド自身が「どんな立派な軍服を着せても、彼らが逃走するのを防げる手立てはない<ref>''Napoleon's Campaigns in Italy'' (Men-at-Arms serise 257) by Philip Haythornthwaite and Richard Hook</ref>」と嘆息するヨーロッパ最弱のナポリ軍は、出征先で負け続け、大恥を晒した。1796年に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の指揮するフランス軍が[[北イタリア]]をほぼ手中に収めると、マリア・カロリーナは侵攻を恐れて、800万フランという巨額の賠償金を払って講和し、戦線から脱落せざるをえなかった。これで皮肉にも(国内での中途半端な改革と戦争での致命的な失敗という)母マリア・テレジアがかつて国政で置かれた状況にも酷似することになった。
 
[[ヴェズーヴィオ|ヴェズーヴィオ山]]の噴火も重なり、精神的にも肉体的にも弱ったマリア・カロリーナは、[[アヘン]]を常用するようになっていた。1797年になると、彼女の健康状態はかなり悪化していたが、故国[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]との同盟関係を再確認させるなど、依然として外交をリードし、1798年に[[教皇領]]のローマでの反乱が起きるとこれに介入を命じる。しかし、鎮圧に失敗したのみならず、年末にはわずかな数のフランス軍の逆襲を受け、ナポリ市までもが占領される事態に発展する。1799年1月に[[ナポリ]]で革命が起こり、共和制が成立して、[[パルテノペア共和国]]が宣言された。6月に国王派が巻き返し、フェルディナンドは実権を辛うじて回復したが、その権威は揺らいだ。[[イギリス]]艦隊が入る前に国王は[[ホレーショ・ネルソン|ホレイシオウ・ネルソン]]提督と同盟を成立させており、条件付き降伏を飲んだ共和派の一部は無事にフランスへ亡命した。しかし、国内にとどまる共和派に対して国王夫妻は情け容赦なく弾圧し、数千人の共和派が捕らえられて処刑された。
 
1806年、絶頂期にあった[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]により、フェルディナンドはナポリ王位を退位させられた。王位はシチリア王のみとなったが、シチリア島に移ってからもマリア・カロリーナは1812年まで実権と影響力を維持した。彼女は、夫が摂政に任命した[[フランチェスコ1世 (両シチリア王)|フランチェスコ]]王子(のちの両シチリア王)に抵抗するが、結局はシチリア島からの退去を息子から命じられ、オーストリアへの亡命を余儀なくされる。こうして晩年は家族から疎まれる存在となり、ウイーンにて病死した。