「金ヶ崎の戦い」の版間の差分

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出典付記述の除去を一旦取消します。Suzunari59さんは高澤等が専門家でないため除去したのでしょうか? であれば元に戻して結構です。
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また信長が無事逃げ延びたのは池田勝正の統率力と明智光秀や木下秀吉らの命がけの戦いのおかげであったが、朝倉本隊・朝倉義景軍の追撃の動きが鈍かった事も大きな要因になったと言われている。これに対し、朝倉軍の追撃はごく一般的な速さであったが、それ以上に信長軍の撤退が迅速であったために十分な追撃が行えなかったとの説や、織田軍の統率がとれていてつけいる隙がなかったという説、上記のような朝倉家内部の問題があったとする説などある。
 
また金ヶ崎の戦いの本質は、将軍[[足利義昭]]が企画したもので、朝倉氏が拉致軟禁していた[[武田元明]]の救出が目的であったとの説もある。それによると元明が救出された時点で金ヶ崎の戦いは目的が達成され、織田軍は撤退を始めたとする<ref>[[高澤等]]『新・信長公記』によれば、武田元明救出のための兵船集結に幕府奉公衆の諏訪俊郷・松田頼隆、革島越前守が関わっていた(『革島文書』)。また『安芸毛利元就宛覚書』(毛利家文書)に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」と記され、信長は撤退中に浅井氏の挙兵を知ったとする。</ref>。
 
==金ヶ崎の評価==
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* 宮島敬一『浅井三代』[[吉川弘文館]]、2008年2月。ISBN 978-4-642-05244-3
* [[谷口克広]]『織田信長合戦全録』[[中公新書]]、2002年1月。ISBN 4-12-101625-4
* [[高澤等]]『新・信長公記』ブイツーソリューション、2011年5月。ISBN 978-4-434-15625-0
 
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