「カムチャツカ地方」の版間の差分

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[[1697年]]に[[ウラジーミル・アトラソフ]]が65人の[[コサック]]と60人の[[ユカギール人]]を率いて半島を調査し、{{仮リンク|カムチャツカ川|en|Kamchatka River}}に2つの船着場をつくった。それらは後にロシアの毛皮商人たちの交易の拠点となった。コサックたちは[[1704年]]から[[1706年]]にかけて独自に植民地を形成し、先住民の[[イテリメン族|カムチャダール人]]たちを搾取した。[[ヤクーツク]]から、地域の秩序を取り戻すためにアトラソフが派遣されたときには時すでに遅く、[[1711年]]にアトラソフは殺害されてしまう。それ以来、カムチャツカはヤクーツクからの中央の影響を受けない半独立的な地域となった。[[1713年]]には約500人のコサックがいたとされる。コサックたちの過剰な搾取は住民の反乱を招き、[[1731年]]には蜂起した住民がニジネカムチャツキーに暮らしていたコサックたちを殺害した。残ったコサックたちは火器や大砲で反撃して蜂起を治めた。[[18世紀]]初めには約2万人いたとされる先住民族は、[[1750年]]には8,000人になった。
 
[[1740年]]に[[デンマーク人]][[ヴィトゥス・ベーリング]]によってペトロパヴロフスク・カムチャツキーが建設された後、カムチャツカは流刑地となり、次第に開かれていった。ロシア帝国政府はカムチャツカ半島への入植を奨励した。[[1812年]]には先住民族は約3,200人を切ったが、ロシア人は2,500人に上った。[[1854年]]、[[クリミア戦争]]でロシアと戦っていた[[フランス]]と[[イギリス]]がペトロパヴロフスク・カムチャツキーを攻撃([[ペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦]])。988人の成人男子はたった68丁の銃で、206丁の銃を持った2,540人の英仏軍の侵入を退けた。英仏軍の退却の後、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーは軍事的責務を解かれ、軍港の機能は[[ウスチ・アムール]]({{lang|ru|устья-Амур}}、Ust-Amur)に移された。翌年に再び英仏軍がやってきて港を攻撃したときには、ペトロパヴロフスク・カムチャツキーは無人となっていた。
 
[[1867年]]に[[アラスカ]]が[[アメリカ合衆国]]に売却されたため、アメリカへ渡る商人や探検家の中継地としてのペトロパヴロフスク・カムチャツキーの意義もなくなった。[[1860年]]に[[沿海州]]が設置され、カムチャツカ半島はその管理下に置かれた。[[19世紀]]末のカムチャッカ半島のロシア人は2,500人ほどで、先住民は5,000人にまで増えた。[[1917年]]の[[ロシア革命]]と[[大日本帝国]]の[[シベリア出兵]]を経て、[[1920年]][[3月7日]]に[[極東共和国]]が建国されたが、カムチャツカ半島は同年12月30日に[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]へ譲渡され、[[1922年]]にはロシアなどで形成された[[ソビエト社会主義共和国連邦]](ソビエト連邦)の一部となり、カムチャツカ半島全域は[[ハバロフスク地方]]に編入された。[[1930年]][[12月10日]]には半島北部に[[コリャーク管区|コリャーク自治管区]]が、[[1932年]][[10月20日]]には半島南部にカムチャツカ州が設置された。ペトロバヴロフスク・カムチャツキーなどのベーリング海沿岸には日本の[[北洋漁業]]基地が設置され、日本企業による缶詰工場などが建設されたが、漁法の変化により徐々に撤退した。
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