「アブドゥル・ラザク」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
|||
1行目:
{{Otheruses|1970年代のマレーシアの首相|その他|アブドゥルラザク}}
'''トゥン・アブドゥル・ラザク・ビン・ハジ・ダト・フセイン・アル=ハジ'''
==人物==
「マレーシア発展の父」(Bapa Pembangunan)と死後、呼ばれている。
マレー大学クアラ・カングサール校を卒業した後、1940年に[[シンガポール]]のラッフルズ大学で勉強するために奨学金を取得した。彼のシンガポール
戦後の1947年に
帰国後、
1959年総選挙では、
1971年に、マレーシア新経済計画を策定した。ラザクとラザク以降のマレーシア第2世代の政治家たちは、民族間の不和の要因となる経済・社会的な不平等の解消に対して精力的に活動した。マレーシア新経済計画では、貧困の撲滅と民族間の経済的格差の解消を目標としている。
また政治的には、1972年2月にマレーシア国会が再開されることで、マレーシア議会政治の危機を克服するとともに、不安定な政治的状況を乗り越えるため、[[全マレーシア・イスラーム党]](PAS)、[[グラカン]]、[[人民進歩党]](PPP)にも与党に参加をすることを呼びかけ、1973年1月、[[国民戦線]](BN)を組織した。彼は、その後も国民戦線に参加する政党を増やすことを推進し、政治面での安定をもたらした。
さらに、1974年総選挙後、フセイン・オンを副首相権蔵相に任命することで自らの後継者に指名するのと同時に、5月13日事件でラーマンと対立していたマハティールを教育相に任命したがこのことはマハティールがUMNO・No.3の立場を獲得したと同時に、[[ブミプトラ政策]]推進上でラザクがマハティールの能力を認めたことを意味していた。
1975年年末より、健康面で不安が出てきたために
{{マレーシア首相}}
{{DEFAULTSORT:
[[Category:マレーシアの政治家]]
[[Category:1922年生]]
|