「河東の乱」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Richknight (会話 | 投稿記録) |
今井狐橋の戦闘に該当する事象の時系列の混乱を解消、コメントアウト記述の一部を除去 |
||
7行目:
北条氏は甲相国境において武田方と抗争していたため、甲駿同盟の成立を駿相同盟の破綻とみなした北条家当主の[[北条氏綱|氏綱]]は、2月下旬に駿河へ侵攻する。義元は軍勢を出して氏綱の軍勢を退けようとしたが、氏綱は[[富士川]]以東の地域(河東)を占拠した。氏綱は、[[遠江国|遠江]](静岡県西部)の[[堀越氏]](氏綱娘が[[堀越貞基]]室)と[[井伊氏]]等と手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまい、信虎は義元に援軍を送ったものの、河東から北条軍を取り除くことは出来なかった。
天文10年には甲斐で武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の[[武田信玄|晴信]](信玄)が当主となり[[信濃侵攻]]を開始する。相模でも氏綱が死去し[[北条氏康|氏康]]が家督を継承。河東における対峙と平行して北関東進出を企図し、両国間では[[甲相同盟]]が成立している。
15 ⟶ 14行目:
義元は晴信や北関東において北条方と抗争していた[[山内上杉家|山内上杉氏]]の[[上杉憲政]]に、北条氏の挟み撃ち作戦を持ちかける。7月下旬、義元は富士川を越え、善得寺に布陣。義元と信玄は対面して申し合わせた。氏康率いる北条軍は駿河に急行してこれに応戦したものの、今川・武田が駿河、山内上杉が関東で同時に軍事行動に出て北条軍の兵力を分断する作戦に打って出たことで、前回の第1次とは逆に挟み撃ちにされてしまった。
11月初旬、今川家重臣・[[太原雪斎]]を交えて誓詞を交し合った後、北条氏は長久保城を今川氏に明け渡した(『[[高白斎記]]』による)<ref>平山優『武田信玄』34頁。</ref>。挟撃の片方を治めた氏康は[[河越城の戦い]]に打って出ることとなった。
|