「ハーフナー・ディド」の版間の差分

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7歳時、サッカーを見てフィールド内でボールを足で蹴る選手と全く違う動きをしている他選手を見て衝撃を受けゴールキーパーという存在を知り、サッカーを始めた8歳時「ハーツズクルツ・ボーイズ」にゴールキーパーとして入団、以降ゴールキーパー一筋の毎日を送る<ref name="Number">Sports Graphic Number、文藝春秋、1992年12月20日号、68頁</ref>。試合中、大声で指示しサッカーボールを両手で扱うディドに試合観戦に来ていたギッダが「ボールに飛びつくこの人はどういうプレーヤーなのか?」と疑問に思い交際スタート。19歳で[[FCデンハーグドーレマン]]でプロデビューしデビュー戦は0-3の完封負け、1980年代はじめには正GKとして活躍していた<ref>[http://www.adostats.nl/speler/0064/havenaar_dido_.htm Dido Havenaar] - ハーフナー・ディドの出場記録。ADOStats.nl(ADOデン・ハーグのデータサイト)内のページ。2010年12月11日閲覧。</ref>。後、ギッダと結婚、1女誕生。
 
1986年、当時[[日本サッカーリーグ]](JSL)1部所属の[[東洋工業サッカー部|マツダSC]](現[[サンフレッチェ広島]])監督の[[ハンス・オフト]]に誘われコーチ兼任選手として来日。1987年には、[[信藤健仁|信藤克義]]、[[猿沢茂]]、[[高橋真一郎]]、[[木村孝洋]]ら地元広島出身者と共に、[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]決勝進出に貢献、1987-88シーズンにはJSLベスト11に選ばれ長男マイク出生。1989年、前年の[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]に出場した[[PSVアイントホーフェン]]が彼の獲得を狙ったが、マツダSCが高額の移籍金を要求したために移籍話は流れ、その失望とチームの2部降格のために[[読売サッカークラブ]]に移籍した<ref name="Number"/>。読売クラブでは負傷を繰り返し、外国人ゴールキーパーを好まなかった[[カルロス・アルベルト・シルバ|カルロス]]監督から冷遇された<ref name="Number"/>。1990年、コーチ就任の要請があったが現役にこだわり固辞、下部組織である当時JSL2部所属の[[読売サッカークラブ・ジュニオール|読売ジュニオール]]でのプレー続行を選択した
 
1991年、[[トヨタ自動車工業サッカー部|トヨタ自動車]](現[[名古屋グランパス]])GKコーチに就任するも、現役に復帰し[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]開幕とともに名古屋とプロ契約。1993年、[[FIFAワールドカップ|アメリカワールドカップ]]出場を目指したオフトジャパン([[サッカー日本代表|日本代表]])のGKコーチも担当、次男ニッキ出生。カタールで行なわれたアジア最終予選では[[三浦知良|カズ]]、[[ラモス瑠偉|ラモス]]ら日本代表選手と共にいわゆる[[ドーハの悲劇]]を経験している。1993年<ref>1993年(平成5年)[[法務省]][[告示]]第382号「日本国に帰化を許可する件」</ref>{{要出典範囲|から1994年にかけ|date=2011年10月}}一家全員で日本国籍取得。プライベートでは長男のマイクをFWに次男ニッキをDFに見立てた”自身”のGKトレーニングを父子で行なっていた
 
その後は[[ジュビロ磐田]](GKコーチ兼任)、[[コンサドーレ札幌]]などで選手として活躍。