「班田収授法」の版間の差分

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'''班田収授法'''(はんでんしゅうじゅほう)とは、古代日本において施行された農地(田)の支給・収容に関する法体系である。班田収授法による制度を'''班田収授制'''または'''班田制'''という。班田収授制は、日本の[[律令制]]の根幹制度の一つであり、[[律令]]が整備された[[飛鳥時代]]後期から[[平安時代]]前期にかけて行われた。
 
== 概要 ==
[[古代の戸籍制度|戸籍]]・[[計帳]]に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公された。こうして班給された田は課税対象であり、その収穫から[[租]]が徴収された。この制度は、当時の中国で行われていた[[均田制]]の影響のもとに施行されたと考えられている。
 
もっとも、均田制と班田制ではその仕組みに大きな違いがあるとする指摘もある。例えば、唐の均田制では3年ごとに実施される戸口所属認定と土地認定機能を持つ造籍と土地分配機能を持つ収授が分離され、収授が毎年の[[計帳]]作成と同時に実施されている。また、唐では戸口(成員)と田地が一体化した経営体である「[[戸 (律令制)|戸]]」が社会に存在している状況を前提として、実際の均田は戸単位の田地の調整によって実施されていた。更に収授の手続・実務は現地の県令が行い、州単位で余剰の田地が発生した場合のみ、中央([[尚書省]])に報告して判断を仰いだ。これに対して日本の班田制では戸口所属認定を持つ造籍と土地認定機能・土地分配機能を持つ班田が6年ごとに実施される1つの事業(戸籍に基づいて班田が実施)になっており、土地を分配する収授が班田手続の1つとなっている。また、「戸」も造籍と班田の結果として形成される組織であった。そして何よりも班田の実施には中央([[太政官]])への申請と校田帳・授口帳の提出と民部省による校田帳・授口帳の[[勘会]]を経て、班田実施を命じた[[太政官符]](班符)の発給を必要とするなど、中央による統制が強く働いた制度であった<ref>三谷芳幸「律令国家と校班田」(初出:『史学雑誌』118巻3号(2009年)/改訂所収:三谷『律令国家と土地支配』吉川弘文館、2013年 ISBN 978-4-642-04603-9)</ref>。
 
== 班田収授の発足 ==
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== 衰退と終焉 ==
班田収授は、[[奈良時代]]最末期になると、[[浮浪・逃亡]]する[[百姓]]の増加や、そうした百姓を[[荘園 (日本)#初期荘園|初期荘園]]が受け入れたことを背景として、次第に弛緩し始めた。そのため、[[桓武天皇]]は6年1班を12年1班に改め、班田収授の維持を図った。しかし、田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等により、平安時代初期には班田収授が実施されなくなった。[[902年]]([[延喜]]2年)、[[醍醐天皇]]により班田が行われたが、実質的にこれが最後の班田となった<ref>ただし、[[914年]](延喜14年)及び[[926年]]([[延長 (日本)|延長]]4年)の班田については、前後に班田の実施を前提とした田地に関する太政官符が出されている(『別符類聚抄』所収延喜14年8月8日官符及び『政事要略』所収延長3年12月14日官符)ことから、一部実施されたとする説もある(佐々木宗雄『平安時代国政史研究』校倉書房、2001年)。更に班田制を土地認定機能とそれに基づいた土地分配機能からなるとする観点から、前者に基づく校田帳の作成・提出とこれに基づく[[勘出]]が[[天慶]]年間まで続いていたことが確認できる([[承暦]]2年作成『出雲国正税返却帳』)ことから、班田収授が実施されなくても10世紀前半まではシステムとしての班田制は維持されていたという考えがある(三谷芳幸『律令国家と土地支配』吉川弘文館、2013年)。</ref>。
 
班田収授は唐の均田制を参考にしたものであるが、その手本となった唐が[[780年]]に[[両税法]]を施行し既に均田制が崩壊しており、このような制度を当時の日本が導入する事自体に無理があったと言える。そもそも、班田収授法に基づいて班給・収公される「公地」が、本当に実態として存在したのかにも疑問が呈されている([[公地公民制]]を参照の事)。