「ムスチスラフ3世」の版間の差分

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'''ムスチスラフ3世''' (([[ロシア語]]:Мстисла́в Рома́нович Ста́рый 、[[ウクライナ語]]:Мстислав Романович Старий) ( ? - [[1223年]][[6月2日)。]])は、[[ロマン・ロスチスラヴィチ|ロマン1世]]の子。[[スモレンスク]]のモノマフ一門([[ウラジーミル2世モノマフ]]を始めとする家系)の出である。[[プスコフ公]]:[[1179年]]、[[ベルゴロド公]]:[[1206年]]、[[スモレンスク公]]:[[1197年]] - [[1214年]]、[[キエフ大公]]:1214年 - 1223年。 
 
==略歴==
[[1177年]]、[[ロストフ]]において、叔父[[リューリク2世]]、兄ヤロポルク・ロマーノヴィチと共に[[キプチャク|ポロヴェツ族]]との戦いに参加し、敗戦している。これがムスチスラフ3世が政治の舞台に登場した最初の記録である。
 
[[1178年]]、父ロマン1世によって、ムスチスラフ・ロスチスラヴィチ([[:ru:Мстислав Ростиславич Храбрый|ロシア語版]])と争っていた[[ヴィテプスク公]]のフセスラフ・ヴァシリコヴィチの援軍として派遣され、[[ノヴゴロド公国|ノヴゴロド]]におけるムスチスラフ・ロスチスラヴィチの主導権を遮断して紛争を収めた。
 
[[1185年]]、ホロール川([[ウクライナ]]中部の川。[[ポルタヴァ]]の付近。)([[:ru:Хорол (река)|ロシア語版]])でのポロヴェツ族との戦いに参加し、戦いを終結に導いた。
 
[[1195年]]、[[チェルニーヒウ|チェルニゴフ]]の[[オレーク一門]]が[[ヴィーツェプスク|ヴィテプスク]]への遠征軍を組織し、途上で[[スモレンスク]]の地を破壊し始めた。ムスチスラフ3世は、叔父でありスモレンスク公のダヴィド・ロスチスラヴィチ([[:ru:Давыд Ростиславич|ロシア語版]])により、スモレンスク公軍の長に置かれ、迎撃に出た。戦闘そのものは勝利に終わったが、チェルニゴフ軍と[[ポロチャーネ族]]に背後を衝かれ、[[捕虜]]になっている。また、1197年には叔父ダヴィド・ロスチスラヴィチの死によりスモレンスク公となった。
 
[[1219年]]、従兄弟のムスチスラフ・ムスチスラヴィチ([[:ru:Мстислав Мстиславич Удатный|ロシア語版]])が[[ノヴゴロド公]]となり、ムスチスラフ3世をキエフ大公とした。なおムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、次の夏までに[[ハールィチ|ガーリチ]]に基盤を築いている。
 
1223年、[[モンゴル帝国]]軍の最初の侵攻の情報がもたらされると、ムスチスラフ3世とムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、[[キエフ]]にて、モンゴル軍に対する諸公との会議を取り持った。しかし、肝心の[[カルカ河畔の戦い]]では川岸の[[要塞]]化を怠り、3日で侵略を許した。諸公の連合軍は敗れ、ムスチスラフ3世は捕虜となり処刑された。
 
==注==
*本頁の地名は、[[公爵]]の称号名との統一性を鑑み、公爵の称号名に慣例的に用いられている表記を優先して表記してある。例えば、ヴィテプスクは[[ベラルーシ]]の地名であり、[[ベラルーシ語]]音写としてはヴィーツェプスク(Віцебск)等がより適切である。
 
==出典==
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[[Category:キエフ大公]]
[[Category:リューリク朝]]
[[Category:生年不明]]
[[Category:1223年没]]