「村国男依」の版間の差分

鳥籠山の戦いを追記
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(鳥籠山の戦いを追記)
不破関に入って美濃国と東国全般を勢力下におさめた大海人皇子は、7月2日に軍をそれぞれ数万の二手にわけ、一方を倭([[大和国]])に向かわせ、他方を[[近江国]]に投入した。『[[日本書紀]]』は男依をこの軍の主将とは明言せず、総司令官の役目は[[高市皇子]]にあったとされる。しかし、以後の記述で近江方面の軍をさすときに、書紀は「男依等」と記し、他の将を挙げない。男依を第一と位置づける評価の表れであろう。
 
近江国に入った男依らの軍は、7日に息長の横河で大友皇子方の軍と戦って勝ち、敵将[[境部薬]]を斬った。9日に敵将[[秦友足]]を鳥籠山で破り、斬った。13日には安河の浜で戦って大勝し、[[社戸大口]][[土師千島]]を捕らえた。17日には、近江国府がある[[栗太郡]]の兵を破った。こうして連戦連勝を重ねて、22日に近江京を目前にする[[瀬田]]に至った。[[瀬田橋]]の対岸には大友皇子が群臣とともに大軍を率いて陣を敷いた。男依らの軍はこの日の激戦に勝ち、対岸の粟津岡を占領した。翌23日に追撃を続けて[[犬養五十君]]と谷塩手を粟津市で斬ると、大友皇子は山前で自殺した。
 
== 功臣のその後 ==
日本書紀は戦後行賞の記事で個人名をあげないが、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、[[小山]]位以上をあたえたとする記事があるので、男依が受けた位もこれ以上ではあっただろう。『[[続日本紀]]』大宝元年 ([[701年]]) 7月21日条は、先朝が壬申の論功をおこなったときに村国小依が120戸の封を賞として与えられたことを伝える。小依(男依)の120戸は最多である。だが、地方豪族出身である男依らが、功によって中央の要職を占めることはなかった。
 
男依は天武天皇5年([[676年]])7月に死んだ。壬申の際の功により、外[[小紫]]が贈られた。小紫は高位だが、他の壬申の功臣と同じく[[外位]]である。出自が低い者を有力貴族と同列にするわけにはいかないが、彼等の功績は高く顕彰したいという考慮から、「外」という位が作られたと推測されている。
 
[[Category:壬申の乱|むらくにのおより]]
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