「県犬養三千代」の版間の差分

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三千代の出仕時期は不明であるが、天武8年([[679年]])には[[氏女の制]]により豪族女性の出仕年齢が15歳前後に定められ、三千代も同年に[[命婦]]として宮中に仕えたと考えられている。配属先についても不明であるが、[[和銅]]元年([[708年]])11月には即位直後の[[元明天皇]]から橘宿姓を賜っており、また[[養老]]5年([[721年]])5月には元明太上天皇の病平癒を祈念して仏門に入っていることから、天智天皇の娘で[[草壁皇子]]の妻となった阿閉皇女(元明天皇)に出仕した可能性が考えられている(義江 2009)。
 
はじめ[[敏達天皇]]系皇親である[[美努王]]<ref>美努王は『新撰姓氏録』によれば敏達天皇皇子の[[難波皇子]]の子[[栗隈王]]の子で三世王とされているが、『尊卑分脈』では難波皇子と栗隈王の間に[[大俣王]]を置き、美努王を四世孫としている。律令制度においては王族の範囲が五世王とされているため、美努王が四世王であれば三千代の子葛城王・佐為王は五世王で王族を外れるため、三千代の橘賜姓の背景には美努王が四世王であった可能性が考えられている(義江 2009)。</ref>に嫁し、葛城王(後の[[橘諸兄]])をはじめ、佐為王(後の[[佐為]]・[[牟漏女王]]を生む。
 
天武天皇13年(684年)に第一子葛城王を出生しているが、軽皇子(後の[[文武天皇]])は天武天皇12年に出生しており、元明天皇と三千代の主従関係から、三千代は軽皇子の[[乳母]]を務めていたと考えられている<ref>胡口靖夫「軽皇子の命名と県犬養橘宿禰三千代」『続日本紀研究』185号、1976年</ref>。