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|successor=[[ジョン・クィンシー・アダムズ]]
|birth_date={{Birth date|1758|4|28|mf=yes}}
|birth_place=[[バージニア州]][[ウェストモランド郡 (バージニア州)|ウェストモランド郡]]
|death_date={{Death date and age|mf=yes|1831|7|4|1758|4|28}}
|death_place=[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]]
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'''ジェームズ・モンロー'''('''{{lang-en-short|James Monroe}}'''、[[1758年]][[4月28日]] - [[1831年]][[7月4日]])は、第5代[[アメリカ合衆国大統領]]、[[黒人]][[奴隷]]農場主。大統領職を1817年から1825年まで2期務めた。その任期は「[[好感情の時代]]」、すなわち党派抗争が比較的少なかった時代と、その後の1819年恐慌やミズーリ準州の合衆国加盟(州昇格)について激しい国を挙げての論争があった時代で特徴づけられる。この間に[[フロリダ州|フロリダ]]の獲得([[1819年]])、[[ミズーリ妥協|ミズーリ協定]]([[1820年]])と続き、アメリカ合衆国は[[アメリカ大陸]]における[[ヨーロッパ]]の干渉を容認しないとした、いわゆる[[モンロー主義]]を発表([[1823年]])したことで最も著名となった。モンローは[[アメリカ合衆国建国の父|建国の父]]として最後の世代であり、大統領を続けて輩出してバージニア王朝と言われた時代および[[共和主義者]]世代から大統領になったことでも最後の者だった<ref>Harlow Unger, ''James Monroe: The Last Founding Father'' (2009). </ref>。
モンローは[[バージニア州]][[ウェストモアランド郡 (バジニア州)|ウェストモアランド郡]]に生まれ、[[アメリカ独立戦争]]に従軍した。1780年から1783年まで[[トーマス・ジェファーソン]]について法律を勉強し、1783年から1786には[[大陸会議]]([[連合会議]])の代議員になった。[[アメリカ合衆国憲法]]の批准を問うたバージニア会議では、反連邦党代議員として中央政府にあまりに大きな権限を与えすぎると主張して批准に反対した。それでもモンローは新しい連邦政府に積極的に関わり、1790年にはバージニア州から[[アメリカ合衆国上院]]議員に選出されて、ジェファーソンの一党(後の[[民主共和党 (アメリカ)|民主共和党]])に加わった。[[バージニア州知事]](1799年-1802年)として行政の経験を積み、[[フランス]]における外交官として1803年の[[ルイジアナ買収]]交渉に貢献して国民的な名声を得た。
 
[[米英戦争]](1812年-1815年)では[[ジェームズ・マディスン]]大統領の下で[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]および[[アメリカ合衆国陸軍長官|陸軍長官]]として重要な役割を演じた。[[1816年アメリカ合衆国大統領選挙]]では退勢著しかった[[連邦党]]からの抵抗もほとんど無く、選挙人投票の80%以上を獲得して大統領に当選した。大統領としてのモンローは党派的緊張を緩めようとして国内の巡行に出た。国家主義が盛り上がった時だったので何処に行っても歓迎され、党派の抗争は弱まり、「好感情の時代」が続いた。1819年恐慌が襲い、1820年にはミズーリ準州の加盟問題で国内が論争に巻き込まれた。それでも[[1820年アメリカ合衆国大統領選挙]]ではほとんど全会一致で再選された。[[1823年]]にはモンロー主義を発表し、これが[[アメリカ合衆国の外交史|アメリカ外交政策]]の規範になった。[[1825年]]に大統領職を辞すると財政的苦境に立たされた。[[1831年]][[7月4日]]に[[ニューヨーク]]市で死去した。
 
== 生い立ち ==
モンローは[[1758年]][[4月28日]]に[[バージニア植民地]]ウェストモランド郡の森林地帯で生まれた。その生地は現在モンロー・ホールと呼ばれる所から1マイル (1.6 km) の距離にある。彼の父、スペンス・モンロー (1727年-1774年) は木工業も学んだことのある中程度の農園主だった。モンローの母エリザベス・ジョーンズ (1730年-1774年) とは1752年に結婚した。夫妻には下記5人の子供が生まれ、4人が成人まで成長した。
* エリザベス・モンロー・バックナー - [[キャロライン郡 (バージニア州)|キャロライン郡]]
* '''ジェームズ・モンロー'''
* スペンス・モンロー・ジュニア - 1歳で死亡
* アンドリュー・モンロー - アルベマール郡在
* ジョセフ・ジョーンズ・モンロー - [[ノーサンバーランド郡 (バージニア州)|ノーサンバーランド郡]]地区裁判所事務官、モンロー大統領の私設秘書、後に[[ミズーリ州]]に入植した。
 
父方の曽祖父は17世紀半ばに[[スコットランド]]からアメリカに移民して来ていた<ref name="autogenerated1929">Horace Monroe, Canon of Southwark. "Foulis Castle and the Monroes of Lower Iveagh". Published London. 1929</ref>。そのアンドリュー・モンロー少佐(?-1688年)は、古代スコットランド高地一族の長である第14代ファウルズ男爵ロバート・モンローの子孫だった<ref name="autogenerated1929"/>。1650年、アンドリュー・モンローはウェストモーランド郡ワシントン教区に広大な土地の特許を得た<ref>[http://books.google.co.uk/books?id=QPRXcYdWylwC&pg=PA55&dq=james+Monroe+great-great+grandfather+Andrew+Monroe+scotland&cd=4#v=onepage&q=james%20Monroe%20great-great%20grandfather%20Andrew%20Monroe%20scotland&f=false Scotland's Mark on America] By George Fraser Black</ref><ref>{{cite web|url=http://www.presidentialavenue.com/jam.cfm |title=James Monroe |publisher=Presidential Avenue |date= |accessdate=2010-04-20}}</ref>。