「聖徳太子」の版間の差分

編集の要約なし
編集の要約なし
編集の要約なし
|役職=[[皇太子]]
}}
'''聖徳太子'''(しょうとくたいし、[[敏達天皇]]3年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[574年]][[2月7日]]) - [[推古天皇]]30年[[2月22日 (旧暦)|2月22日]]([[622年]][[4月8日]]))は、[[飛鳥時代]]の[[皇族]]、[[政治家]]'''厩戸皇子'''または'''厩戸王'''の後世の呼称。[[用明天皇]]の第二皇子、母は[[欽明天皇]]の皇女・[[穴穂部間人皇女]]。
 
[[推古天皇]]のもと、[[蘇我馬子]]と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで[[遣隋使]]を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、[[冠位十二階]]や[[十七条憲法]]を定めるなど[[天皇]]を中心とした[[中央集権]]国家体制の確立を図った他、[[仏教]]を厚く信仰し興隆につとめた。
 
=== 紙幣の肖像など ===
[[Image:Taishi 10000JPY.jpg|thumb|280px|一般的に聖徳太子とされている人物の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)]]
[[画像:Shotoku taishi revenue 500Yen 1948.jpg|thumb|right|[[聖徳太子]]をの肖像がかれた500円収入印紙(1948年発行)]]
聖徳太子の肖像画は[[1930年]]、[[紙幣]]([[日本銀行券]])の絵柄として[[百円紙幣]]に初めて登場して以来、[[千円紙幣]]、[[五千円紙幣]]、[[一万円紙幣]]と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる[[1958年]]から[[1984年]]に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる[[唐本御影]]から採られている。[[1948年]]発行の500円[[収入印紙]]にも聖徳太子の肖像画が採用されている。
 
 
== そのほかの伝説 ==
[[画像:Araiyakushi Prince Shotoku right.jpg|240px|thumb|新井薬師寺 16歳の聖徳太子像([[新井薬師寺]])]]
以下は、聖徳太子にまつわる伝説的なエピソードのいくつかである。
 
 
== ゆかりの寺院 ==
[[File:HoryujiYumedono0363.jpg|240px|thumb|夢殿([[法隆寺 夢殿]])]]
ここでは、以下の寺院をいくつかとりあげる。
 
 
== 墓所 ==
[[画像:eihukuji_shotokutaishihaka2.jpg|240px|thumb|聖徳太子墓([[叡福寺]]、聖徳太子墓]]
{{Main|叡福寺#叡福寺北古墳}}
墓所は[[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]]の[[叡福寺]]にある「叡福寺北古墳」が[[宮内庁]]により比定されている(聖徳太子御廟・[[磯長陵]] しながりょう)。日本書紀には磯長陵とあるが、磯長墓と呼ばれることもある。[[穴穂部間人皇女]]と[[膳部菩岐々美郎女]]を合葬する三骨一廟。後世に定められたものとする説もある。
969

回編集