「大西一史」の版間の差分

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== 人物 ==
[[商社]]の[[営業職|営業マン]]として活動していたが、親戚の衆議院議員である園田博之代議士より秘書の誘いを受け[[政治]]の世界に入る。父親の靖一も当時現職の熊本県議であったが体調不良のため引退。本人は当初1999年の統一地方選挙に出馬予定をしていたが、現職県議の死去などにより欠員が生じ1997年12月熊本県議会議員の補欠選挙が執行されたために急遽出馬し初当選
内閣官房副長官秘書として、総理大臣官邸に勤務。当時阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件など国家的に重大な災害や事件が発生し、官邸の危機管理機能の弱さを実感するとともに、各省庁縦割りによる中央集権体制が有事の際に機能しないことを問題視している。また総理官邸での勤務経験をきっかけに、中央集権の問題点と、地方自治の重要性を認識したことが地方議会への出馬のきっかけとなったとブログでコメントしている。
 
父親の靖一も当時現職の熊本県議であったが体調不良のため引退。本人は当初1999年の統一地方選挙に出馬予定をしていたが、現職県議の死去などにより欠員が生じ1997年12月熊本県議会議員の補欠選挙が執行されたために急遽出馬し初当選。
 
熊本県議会では若手県議として、自身と同じく二世議員である[[幸山政史]](現・熊本市長)らと活動。2002年11月幸山政史の熊本市長選への出馬をきっかけに、自らが所属する自民党が対立候補を推薦したのに対し、盟友の幸山を全面的に支援し当選に導く。熊本市長選挙後も本人は自民党に残る意思を示しており、党内からも厳しい処分をすべきではないという意見も寄せられていたが、結局自民党県連の議長経験者ら幹部で構成される党規委員会からの離党勧告を受け離党。無所属になる。この処分には県連内部からも数ヶ月後に控えた統一地方選を前に、「党のイメージが下がり逆効果」との批判があった。また、本人も離党勧告を受けた後のインタビューで、「政党に対する有権者の信頼感の欠如は大きく、市長選で自分が経験したことが、今後の党改革に役立つとの思いもあった。」と述べている。
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その翌年の県議選においては無所属での立候補となったが、県議会史上最高得票を獲得し3期目トップ当選。4期目の2007年4月の統一地方選挙でも連続トップ当選を果たす。
 
無党派層の絶大な根強い支持を背景に、その後も県内の各種選挙において大西の動向が注目されてきたが、特に、2003年に行われた衆議院議員総選挙において、当時衆議院熊本3区の代議士であった[[松岡利勝]]に対抗して無所属で出馬した現衆議院議員[[坂本哲志]]の選挙を先頭に立って支援し、勝利に導いた事から注目され、各種選挙の度毎に今もなおその動向が注目されている。ちなみに2008年3月に執行された熊本県知事選挙では現知事の[[蒲島郁夫]]を支援した。
 
現在は保守系無所属議員で構成する県議会内会派「無所属改革クラブ」代表を務める。
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また、2008年5月には、[[地域・生活者起点で日本を洗濯(選択)する国民連合]]「せんたく地方政府議員連合」の事務局長に就任した。
 
県議会議員として議員活動を行いながら、2008年4月に九州大学大学院修士課程 公法・社会法学専攻を受験し合格に進学。大学院では政治学、行政学、行政法等を学ぶ。
修士課程を2年間で修了し、修士(法学)の学位を取得。同時に同大学博士後期課程法政論専攻を受験し合格。現在は博士後期課程において研究活動を行っている。
修士課程時代に書いた論文が高く評価され、大正14年創刊の公法・行政学・地方自治行財政に関する優れた論文を集めた伝統ある総合月刊誌である「自治研究」(第一法規)に
「マニフェスト選挙と地方自治」という論文が7回にわたり連載されている。
 
趣味は[[ドラムセット|ドラム]]で、高校時代にCBSソニーのオーディションでグランプリを受賞した経験もあり、大学時代は一時プロのミュージシャンを目指して活動していたと自身のブログでも告白している。